対談 コンペ解題:「災間を生きる都市」内藤廣×羽藤英二

2022年7月14日(木)18時より、第3回復興デザイン会議記念講演会を開催しました。

前半はU30復興デザインコンペの解題として、U30復興デザインコンペ審査委員長の内藤廣氏、同じく審査委員の羽藤英二氏による対談を行いました。

対談 コンペ解題:「災間を生きる都市」

対談者 内藤 廣(建築家・東京大学名誉教授/U30復興デザインコンペ審査委員長)

    羽藤 英二(都市工学者/U30復興デザインコンペ審査委員)

進行  益子智之(早稲田大学)

はじめに

羽藤 U30復興デザインコンペですが、今年で4回目になります。

毎年内藤先生が審査委員長ということで続けてきていますが、年々レベルも上がってきていると非常に強く感じております。東日本大震災を契機にして始まった復興デザインというところも、災害から日に日に遠ざかっている一方で、どういうリアリティーを持った提案ができるのかというところについては、もう一度審査をする側としても考えていく必要があるでしょうし、審査というところを超えて、今復興デザインというものが現地現場でどういう風に求められているのかということは、もう一度考えるべきときに来ているのではないかという風にも思っています。

そういう中で、益子さんがこういうテーマを設定していただいたとは思うのですが、それについて内藤先生と私の方で1時間ほど話をさせていただいて、コンペに関心をお持ちの方々に少し呼び水的に、色々な議論ができれば、と思った次第であります。

羽藤英二 解題

羽藤 災間(さいげん)というふうに私は読んでしまったのですけれども、今までにない言葉を益子さんたちは考え出したんだな、と思いました。これを少し自分なりに考えてみると、私自身も今回のU30のコンペに対して、新しい都市の捉え方が生まれるのではないかということを期待しているということになります。

「災」という字がテーマの中に含まれていますが、これが災害にとどまらず、シリアの内戦の話も出だしのところでは書かれてありましたが、戦災というものがむしろ災害よりも我々の身近に迫っているということを特にU30の方々も感じておられるのではないかなという風に思います。

ウクライナの危機は、非常に我々にショッキングな事件として伝わっているわけですが、これを今日ご参加いただいている方がどれくらい身近に感じているのかが、今気になっています。

この写真はウクライナの方が、被災地というか、戦災のあるところで、マッチングアプリを使って世界中の人に助けを求めている、さまざまなマッチングのニーズを伝えている。その様子を撮った映像写真です。戦争が遠いところで起こっているけれども、戦争している当事国が実は日本と国境を面している国であり、ネットという媒介を使うことで、我々は戦争にごく近いところにも入っていけるし、直接的に彼らとコンタクトをとることもできて、ましてや助けることもできる。情報メディアというものが今の災に対して我々が向き合うときのスタンス、スタンスの変化を生み出している、そういう認識を僕自身が持っています。こういう状況はある意味東日本大震災の時でも一部見られたことではあるかもしれませんが、発災当時、被災の状況はなかなか分からないと言っていたところからすると、海外の災、戦争というのが非常に身近になってきているところに大きな変化を感じています。

また一方で、これは衛星画像の写真ですけれども、今地球上を本当に無数とも言ってもいいぐらいの通信衛星が飛び交っていて、その映像を赤裸々にロシアとウクライナの軍事的な戦略を日本にいながら、海外にいながら確認することが可能な状況になってきています。30センチぐらいの分解能です。2月ぐらいのウクライナの領地の中の写真ですけれども、もう十分どういう車両が、どういう人がいるのか、ロシアが入ってきていて、渋滞を起こしているとか、そういうレベルのことまでわかる。こういうところは戦災から戦災へということで、日本で起きた戦災というと1945年終戦の太平洋戦争なわけですが、あの戦争と比べても非常に状況が変化している。

ただ、一方で変わらないものもあると思うんですよね。でも逆に変わらない部分というのが伝わりにくくなっているのか、あるいはそれがもっと伝わるようになってきているのか。あるいはその結果として、我々の戦災というものに対する態度であるとか、あるいは意思決定がどう変化していくのか。という中でどのように、災と災の間でデザインというものが意味を持ってくるのかということを考える。そういう時代になってきているんじゃないかなということを、ウクライナの戦争を見ていて思うわけでございます。

で、災間(さいげん)というふうに私は読んだんですけれども、災間のデザインとは何かということを考えたときに、多分災が起こっている場所とか、次の災とか、過去の災とか他の災とか。そういうものとの関係を理解して、その間にある目に見えない何かを感じて時間と空間に働きかけ、その過程をデザインすることがこの災間をデザインすることなんじゃないかなと思います。

我々は災害復興っていうと何かが壊れたから、それをより良い復興を目指して直すんだという意識の中に捕われてしまいますけれども、実はその災の次には災があるし、災の前には災があるわけです。あるいは、その横にも災はあるわけです。その間に我々はいるんだということを認識することこそが、ひょっとしたら復興の核心ではないか。そういう認識を改めてこの災間とは何かというところについて考えていて、非常に重要なテーマだなと思ったということになります。

東日本大震災が発生してからもう10年以上の時間が経つわけですが、確実に次の災害に近づいてきているという認識も持つべきです。あるいは最初の復興したものから、人口が減ってきていて、どういうふうに減ってきている人口に一旦フィジカルな復興を果たしたインフラあるいは建築都市的なしつらえを擦り合わせていくのか。こういった最初の復興とは違う問題に、我々は直面しているのも事実だろうと思います。

こういう問題をどう考えられるのかということは、このコンペでも重要なテーマです。今までそういう提案ってほとんどなかったように思うんですけれども、そういうことを今回のコンペでは、益子さんたちが問いかけているんじゃないかなということを、この災間という言葉から感じた次第です。

間(あいだ)っていうのは、丹下さんとか磯崎さんも結構使っていてですね。人間とか空間という言葉でもって、単純な建築とか単純な都市ということではない概念を人と人との関係の中で、どういう風に建築が作られるのかということ、目に見えない間っていうものを感じて表現することこそが、芸術の核心であるといったようなことを言っています。

だから、災と災の間というものを考えるってことが、いかに本質的であるか。ちょっと哲学的な問いでもあるので、面倒くさいなって思っている人も結構いるんじゃないかなとも思うんですが、現実に我々はそういうところにいるということもまた事実ですので、色々考えてもらいたいなということを強く思っています。

これは全然関係のないことですが、最近、若い人はどんなものを作っているのかなということで、佐藤瞭太郎さんという人が作っているAll Nightという映像作品を最近見て面白いなと思ったんです。U30の学生さんと同じぐらいのアーティストの方なんですけれども、この方は、ゲームの作成エンジンUnityにある3Dの素材を使って、映像作品を死者の蘇りというテーマで作っています。

実はこれの素材が何かというと、安部公房なんですよね。安部公房の作品の中に変形の記録っていう短編があります。この小説では、戦災下の兵士の魂の記録という形式をとって、生存者と死者の間の並行表現を変形という形でSF的なプロットでやるんですよ。死者が現在に蘇る戦争中の兵士が戦後の世界に甦って一緒に混ざり合っている状況の中で、どんな認識を死者が持つのかということを小説として実験的に彼は描くわけです。戦時下において兵士が抱いていた罪の意識から、いつの間にか戦争が終わって、被害者意識が日本の中で生み出されていっている。この小説が書かれたのは昭和29年ですが、そういう意識の転倒が起こっているというところをあえて亡くなった人を未来に行ったり、色々な時点に紛れ込ませることで、違和感をわっと浮かび上がらせていくという手法論で、彼はこの変形の記録というのを描いています。

何が言いたいかというと、災が起こっている最中のことを、僕らは本当にどれくらい今理解できているんだろう、と思うわけです。それは次の災の時にも起こることです。安部公房の都市、と書いてますが、安部公房は満州で育っていますので、非常に茫漠とした計画都市の外側が荒地であるというような状況にも非常に敏感であったし、あるいは戦災から立ち直りつつ、日本の中でまさに復興の過程における社会の矛盾みたいなことを描きとった人です。それを現代的な若者がこれをモチーフにしてこんな映像作品にしているところを見て、芸術とか演劇とか映像とかっていうことと比べて、都市デザインとか建築とか社会基盤が持っている表現っていうものも、もっともっと自由に社会に対してメッセージを帯びていたりするところがあってもいいんじゃないかな、と彼の作品を通じて、あるいは安部公房の小説を通じて、僕自身は非常に強く思っているということになります。

災間ということで、非常に一つ思い浮かぶというのは散居村。これは築地松という、出雲にあるものですが、繰り返し繰り返し来る水害に対してこういう風景を生み出してきている。微高地に対して、平野のこっちは軟弱であったから、スダジイなんかの広葉樹も今はクロマツとかになってますけれども、自然な形でこういうデザインをしていく。

あるいは水害の常襲地域であれば、これは建築学会の論文集にも出ている横田さん、青木さん、畔柳さんの論文ですけれども、段蔵というような微高地と自然堤防を組み合わせたような形を地域地域の河川の取り付き方とか集落の配置によって、建築的な工夫をするみたいなことは過去もやってきた。これが災害と災害の間を生きるということの自然な形のデザインだったのではないかなと思います。

最後ですけれども、今被災地に行くと風景がすごく変わってきているということを感じます。仙台から八戸まで359キロの復興道路ができたんです。ものすごく地域が変わってきているのを、本当に実感します。災害と災害の間に我々は生きているわけでして、東京だってそうです。関東大震災が起きてから来年で100年経つわけですけれども、次の災害の間に来ていて、それをどういうふうに我々が捉え直してどういうデザインをしていくかということは社会基盤を計画するということであり、建築を設計するということであり、都市をデザインするということそのものなのではないかなと思います。ぜひ新しい提案をこのコンペでは期待しております。

テーマ設定

内藤 そもそも益子さんはなんでこんなタイトルにしようと思ったのか、それきかせてほしいんだけどな。

益子 私を始め浦田さん、萩原さん、その他復興デザイン会議のこれまで関わっている方と議論をして、このコンペのタイトルをつけました。去年は「複合災害と新たな都市像」というのをテーマにしたんですが、やはり災害が常習化・常態化していく中において、空間の将来像を具体化していくために、多様な複合災害が頻発する中で、その間(ま)のデザインをどうしていくのがいいのかを考える必要が出るかなと思っておりました。

コンペの最初のタイトルが「危機の中にある都市」ですが、そこから「ポストコロナの都市像を描く」で、「複合災害と新たな都市像」。ウクライナ等の海外で起きている現状を踏まえまして、またもう一度、少し抽象的な初年度に戻るような形になりますが「危機」よりも具体化して。「さいま」「さいげん」「さいかん」、読み方はまだ定まっていないところがあるのですが、そのような経緯で設定をしたということであります。

内藤廣 解題

内藤 わかりました。
間が持たないって言葉があるよね。災害がイベントだとすると、そのイベントとイベントの間に白けた雰囲気が漂っていて、間が持たないみたいな感じってないですか。

益子 そうですね。あると思います。東日本が起きて、ようやく10年経過していて、今年は関東大震災から長期的な時間軸で見れば、99年で首都直下等も視野に入れて考えていかなければいけない中にあります。その中で、多様な災の間をしっかりとデザインできてないことが、今考えるべきことかと思っております。

内藤 間が持たないというか、災害と災害の間に何か過ごしようがないという苛立ちを感じます。災害も瞬く間に遠のいて10年経つと、はるか遠いようにも感じる。そこのところが、人間という存在の極めて普遍的な姿の一つでもあるのかな、それは人間の本性に根ざしているんじゃないかな、と思うところもあるんです。例えば被災された地域に行くと、皆さん元気に活動されてますけど、ずっといつも念頭に津波の風景なんかがあったとしたら生きていけないわけです。そうするとそれはある意味でカッコ印にするか脇に置かないと明日を生きていけないっていう現実もあるわけじゃないですか。

僕だってそうです。すごく辛いこと、例えば親しい人が亡くなったり、辛いことがあったら、ずっと考えていたら生きていけないので、ちょっとカッコに入れて脇に置くみたいなとこがありますよね。それは、人間の一つの生きる上での知恵でもある。さりとてそんなことをしてると同じことが繰り返されますよっていうことも分かりつつも、なんとなくイベント的な大きな事件が過ぎると、徐々に遠のいてくっていうその感じなんじゃないかな。

そんなことをするとまた来ますよって言ってオオカミ少年みたいに言うのも一つの大切な仕事としてはあるとは思うんだけど、それだけだと共感を得られない。そこが、災間(さいかん)の過ごし方の難しさかなという気がしています。

3.11の震災があってから、3年目から4年目ぐらいにインドネシアに行く機会があって、インドネシアに行くんだったらと、バンダアチェに行ったんですよ。バンダアチェもひどい災害あったところですよね。そうしたら人々は何事もなかったかのように生きている。一時は山側の公営住宅に避難していた人たちも町中に戻って、言われなきゃ、何があったのみたいな、そんな感じで生きてるわけです。

これは極めて哲学的な話だよね。つまり100年後のことを、仮に100年に1遍の災害だというふうに考えたときに、100年後のことをケアし過ぎて、ある意味、99年と364日、暗く不幸になっていくっていうバージョンもあるかもしれないよね。だったらば、今ここ、明日明後日を楽しく生きようっていうのもわからないではない。人間っていうのはどういう存在なんだろうって考えていくと、災間を生きるっていうことは、極めて哲学的なテーマに繋がるような気がします。

最近よく言われているのは「退屈」をどうするか。そんなタイトルの本が出てますね。ずいぶん前にも退屈の研究をやっている人がいたんだけど、リバイバルかな。その退屈をどうするのかっていうのが人間の文明の根源的なテーマの一つなんでしょうね。毎日毎日同じ仕事をしていく。それをどうやって、退屈しないで一日、一日充実して生きていくかっていうようなことは、極めてフィロソフィカルなテーマなんですね。災間を生きるっていうのも同じように極めて哲学的なテーマを掲げたかなという気がします。

もう一つ申し上げておきたいことがあります。高知県の事前復興の委員会(高知県事前復興まちづくり計画策定指針検討会)の委員になっています。多少津波の事情を知ってるので呼ばれたんだと思います。事前復興のレポートとかがかなりいい出来でまとまってきていて、委員会にも出ているんですけど、座長は磯部(雅彦/高知工科大学)さんです。委員会に出ていてつくづく思うのは、やっぱり実際に来てみないと分からないってこと。レポートを作成しているお役人がいくら賢い人でも、あの風景を生で知らないと。僕らだって被災後、後から行ったわけだから、直後の本当の生の風景は知らないわけだし、それでもあのひどい風景を知っているわけですよね。高知県の人達も一生懸命レポートを書いたり、三陸の勉強をしたり参照したりしているんだけど、それでもやっぱり勉強は勉強だよねって感じがしています。

委員会での議論も、南海トラフが来た時に多少の役には立つかもしれないけど、本当の役には立たないような気がしています。そうすると、これは避けがたく起こる話なのかなという気が最近はちょっとしています。だけどそうは言ったって、一人でも少ない方がいいわけじゃないですか。     何かあった時に10人救えたら、100人救えたらもっといいし、1000人、10000人だったらさらにいい。とかく役所が立てる計画なんていうものは、完璧に全ての人を救おうという前提に立ちがちだけど、それは土台無理なことで、一人でも多くの人の命を救う、という方が姿勢として無理がないような気がしています。これはイマジネーションの問題。あるいは哲学的なテーマとしてこれを考えていく必要があるというふうに思います。

3.11の後、ジャンピエールデュピュイっていう人の「ツナミの小形而上学」っていう本が出ましたけど、これは読まれたらいいと思います。これを読むとリスボン地震と津波の話も書いてある。ただ、こういう大きい災害っていうのは来ると当たり前のものになっちゃうっていうようなことも書いているんだよね。非常に大きな変化っていうのは人間の適応力の賜物なのか分からないけど、何かそういう人間の性みたいなものを背負ってるのかもしれない。じゃ、都市は何ができるかっていう話は具体的な話になる。何にもしなくていいのかって言うとそうではないと思うんだよね。やれることはあるし、むしろやれることやることの方がたくさんあると言ってもいいかもしれない。

これだけ東京なんか再開発がどんどんできてくると、その再開発圧力を使ってどこまで防災性能を上げられるかみたいな話あるかもしれない。あるいは堤防が決壊したら墨東地区をどうするんだみたいな話もありますよね。例えば河川でいうと、最近はもう河川だけでは守れないので、流域治水っていう話を、みんな一緒になって言い始めて、前はそんなことなかったよね。河川は河川で守るんだ、とやっていた。守りきれないってことは前から分かっていたんだろうけど、19号台風の時に骨身に染みたらしい。だからそうすると、ここで書いてある災間を生きる都市っていう都市そのものの都市論をどうやっていくのかっていうところに深く関わっているわけです。なので、本当は今やるべき、議論すべき話だというふうに思います。

それで災間(さいかん/さいげん)に関していうと、私はさっき人間観とか人生観とか哲学だとかに関わるという話をしました。我々の世代はまだしも、特に若い人、U30に多いのかもしれないけど、今はどっちかというと、デジタル情報化して非常に情報も得やすくなってるし、羽藤さんが言うみたいにどのような情報も正確に知れるようになってきている。「今」あるいは「ここ」っていう情報に関しては、非常に精度高く得られる時代になっているがゆえに、若い人の価値観というのは、ともすれば「今・ここ」に集中しちゃうんだね、どっちかというと。だけど、本当は「今・ここ」だけじゃなくて、もうちょっと広げてみる。10年前、20年前、もっと広げて100年前とか100年後とか時間的な広がりの中で、「今の私」っていうのを捉えなきゃいけないのかもしれないよね。それから空間的に言うと、自分の身の回りっていうことに関しては極めてケアされてるけど、周辺に広げていってみる。半径100mに広がっていくと、ほとんど何も知らない。300mだとさらに知らない。ずつとずっと広がっていくとウクライナの話にまで行き、最後は地球環境の話になるわけだけど、そういう空間的な広がりの中で「私」っていうものを捉える、あるいは定義するというような作業をかなり意識的に頑張ってやらないと、どんどん「今・ここ」という短くて狭い空間的な広がりと時間的な広がりの中にしか生きていない可能性がある。

そうなると、ここで災害と言っているものは人類にとって大きいイベントなわけだから、大体何10年、何100年っていうスパンでやってくる。それに対しての想像力が全く欠けているとどうしようもないってこともありますよね。だから僕は、まずは若い世代には時間的な広がりと空間的な広がりの中で、今を考えて、今は災間なんだっていうような認識を持つ。こういう思考手順をやってもらいたいなというふうに思います。これは私からのメッセージです。

対談

益子 内藤先生ありがとうございます。改めて、今回のコンペのテーマというものが哲学的であり、今我々が住んでいる土地を短期的に捉え過ぎてしまっている。そのような現状に対して、もう少し長い時間で空間と時間を引き伸ばして、今ここというものをもう少し考えるということの重要さを改めて感じた次第です。そこから具体的にどういう建築都市土木復興デザインに関わる諸分野の融合によってどういうデザイン提案が出てくるのか。そこを私もこのコンペに携わりながら改めて考えていきたいなという風に思いました。

内藤 僕は今のU30は面白いことになっている、年寄りから見ると面白い時代を生きてるなという感じが強いですよ。僕らが青春を過ごした時代、若い頃っていうのは、基本的には経済をどうやって立て直すかっていうようなえげつない経済成長の時代でベクトルがはっきりしてた。もうちょっと言うと大きい災害がなかった50年っていう風に言えるかもしれないですね。台風が来て洪水があったり、いろいろあったけど、大きな災害っていうのは伊勢湾台風以降、あんまりなかったんじゃないかと思うんです。なので、阪神淡路大震災があったけどそれまでは比較的災害の少ない時代で、当然戦争も負けたわけだけど、この間に海外出兵したわけでもないし、戦争で死んだ人がいたわけでもない50年ですよね。

そこからちょっとモードが変わった。阪神淡路大震災があって、6000人ぐらいの方が亡くなられたから、都市の真ん中でも災害があり得るんだ、と初めて気がついちゃったみたいなところがあるわけです。そうこうしてるうちに今度9.11があって、これは要するに今に続く世界の裂け目みたいなものがそこにあって、これは天災ではなくて人災です。で3.11プラス原発の問題。そうすると、その後の間なんだね、今は。

だけどひょっとしたら、コロナがこれに含まれると思うんですね。津波、地震っていうのは僕はハードアタックだと思うんですよ。要するに、物理的な力で町を壊したり、建物を壊したり、人の命を奪ったりっていうかなり物理的な話です。それに対してコロナは全然違う類いだよね。別に目に見えた形で都市が壊されたりするわけじゃなくて、むしろ都市とか人間のソフトウェアに対して、ネットワークに対してアタックをかけたわけだよね、ウイルスは。

なので、いわゆる自然が引き起こす大災害とコロナが引き起こしつつある大災害の違いは、片一方がハードアタックで、片一方はソフトウェアに対するアタック、あるいはハッキングっていうふうに言えるかもしれない。2種類の違うものを前にして、片一方のコロナに関してはまだ抜けたわけじゃなくて、これからもうもう一回波が来るかもしれないっていう真っ最中の中で、例えば50年ぐらい経ったらどう見えるか、と想像してみる。益子さんはいくつですか。

益子 今32になります。

内藤 そうすると50年ぐらいたつと82歳か。50年もいらないかもしれないけど、あと20年もすると、もう3.11も知らない世代が社会の中心になるわけですよね。その時に益子さんはそろそろ中年かなんかで、「いやお前らね、実は俺の若い頃には3.11っていうのがあってさ。」なんて津波の話をして、それの10年ぐらい経った頃にコロナってのがあってさ、なんて言うと、「それ何ですか」みたいに言われる(笑)。そういうことになるわけですよね。今のU30は、それを知っている世代としての責務っていうのは多分あるはず。もうちょっと言うと、さらにその10年前の9.11も子供の頃に見ているかもしれないです。9.11を子どもの頃の記憶で見て、3.11を体験してその時に人々がどう振る舞うか、社会がどう動くかっていうのも体験して。コロナっていうものが来た時にどうだったか、っていう体験をして。3点セットをひょっとしたら持っている。そういう世代というふうにあと30年か、それか益子さんがじいさんになったら言われるんじゃないかなと思います。

益子 私もおそらく小学生の頃、家に帰って9.11の映像をテレビで見たことは今でも覚えておりますし、都市計画を私は専門としているのですが、復興に携わり始めたのもやはり石巻で災害での泥かきの作業を体験したことを踏まえて、専門的な職能として何かできないかということは思って取り組んでいるところはあります。なので、50年後、私自身がそのような立場に立った時に、内藤先生がおっしゃられていた共感を本当に持っているのかということ。羽藤先生も、身近なものとして本当に感じられているのかってことを先程おっしゃられていましたけれども、そこをまず振り返りつつ、建築都市土木としてどういう貢献ができるのかということだと思います。

羽藤先生の発表の中で、最後のスライドで過去の水害常襲地域における建築のビルディングタイプをお示しいただきました。過去のものをそのまま現代にデザインとして落とすということは恐らくないと思うんですが、そこから得た学びをどう建築のデザインに、地域のデザインに落とすのか。もし追加で、内藤先生のお話も含めて考えていることがあれば、U30の皆さんに少し助言いただけないでしょうか。

羽藤 研究は結構できるんですね。今は過去に対しても未来に対しても計算機の性能はものすごく上がっているし、過去の記録に対する当たり方もものすごく当たりやすくなっている。だから、10年前、20年前の先輩たちが考えたデザインよりも、はるかに多くの情報を参照できるようになっていて、そこから何か新しいデザインというのは生まれるように思うんですよ。

なんだけどじゃあさっき見せた段倉のように水害の常襲地域で繰り返し繰り返し、水害のときの微高地の張り付き方だったり、河川からの距離だったり、軒先の自分の管理の仕方だったりによって水が来たとか来なかったとか、人が助かったとか助かってないってところから出てきている形を上回る形が出せるか。それはリアリティーだったり、当事者意識の継承だったりがその場所で生き続けている人達を越えられるかっていう問題になってくる。そこはどうなんだろうって思う。

ただそういうものがあるということだけはわかるし、そこから学ぶこともできるわけで、そういうことはしてほしいと思う。リサーチとエンジニアリングとアートとデザインって多分4象限ぐらいのところをぐるぐる回りながら復興デザインというものは多分みんな考えると思う。リサーチが持っている、先達たちのいろんな災害と災害の間にあるところから生まれてきている過去のプロトタイプというものを参照することは、結構しやすくなっている。あとはそれを頭に置きながら、自分が対象敷地と定めたところでどういう発想を展開していくか。さらに言えば現代社会というのは計算機の性能も上がっているし表現のツールもいろいろ出てきているわけだから、そういうものを重ね合わせたところで、出てくるものがすごく見たいなとは思うんですよね。

内藤さんは「間が持たない」ということじゃないのか、と言っていて、僕は東日本大震災ですごい痛い目をしたなっていう思いがあって、それがずっと続いてるんで間が持たないっていう感じはない。だけど、社会の他の人たちと話すと、やっぱり自分がすごくズレているなってことは思うし、もっともっと現代的な価値を先生何とかなりませんかみたいな話をすごく正直言われるんだよね。東京の人たちは特に。だから、僕が自分でズレているんだなっていうことはすごく感じるんだけど。でも僕みたいに自分がズレてるなって思っているから、みんなこういう場に来てると思う。やっぱりそうじゃないだろって思うところがあって、そうじゃないと思う相手に何か突き付けてやりたいとか世の中変えてやりたいっていう思いが、社会とか都市を動かすんじゃね、という思いが僕にはある。

内藤 たぶんそうだよ。正しい。

羽藤 だからすごい悔しいんだよ。あんな思いしてもう忘れちゃってんの、みたいな。ほんと腹立つんだよね。こんなところで愚痴言うな、いい年こいた大人がって感じなんだけど。でも今だからできることだから。多分小野田先生もすごく思っていると思うんですよ。小関さんだって思っていると思うんだけど、当時できなかったことが、今だからできるっていうのは、東日本大震災の後、積み重ねの中でうまくいったこと、いかなかったことを照射できる素地があるし、統計データを見ていけば明らかに首都直下だって近づいてるし、南海トラフも近づいている。その中で、ちゃんとエビデンスを揃えて精度のいい復興デザインの形っていうのを見せ付ければ社会って俺は動くと思う。

それを動かすのは過剰な真剣さっていうか、精神論に行くとあんまり良くないのかもしれないけど、俺はそういう風に思うから今日ここにアクセスしてくれているみんながそういう風に動いてほしい。ウクライナだってさ、あのマッチングアプリで何やってるんですか、と思うかもしれないけど、そういう熱意を持った連中が衛星画像を見てこうだとかああだとか、実際に現地の人と繋がって何かを送り届けようとしている。安部公房だって昭和29年、なんであんな変な小説書いたのかというと、腹立ってたんだよ、きっと。そういうものが傷痕を残して、今の若い人に、佐藤君とかに刺さっているっていうのはあると思う。そういう熱い思いで描いてほしいし、社会は絶対そういうものを求めてるって思う。何かやっぱこんな提案が、っていうのを出してほしいんだよ。内藤さんがえっ!て驚くような(笑)。

内藤 羽藤さん焚き付けてるわけね。

羽藤 いや焚き付けてるっていうか僕が見たい。だって困るじゃん。東京だってこんなことを繰り返してていいのかって絶対ここ来てる人思ってるんですよ。だったら見せてくれよ。見せてほしい。

内藤 東京はね、すごく色々なことが見えにくくなってるよね、前より。

羽藤 巧みですからね。

内藤 色々再開発とか見せられたりするんだけど、立場上。巨大開発っていうのは、ほんとに好きになれないね。なんでそんなデベロッパーは超高層建てたいんだみたいな話も含めて、資本主義圧力ってすごいんだよね。コルビジェも言っていたけど、資本主義はある意味でとても臆病だけれども、どっちかっていうと、「今・ここ」、それだけなんだよね。つまり彼らにとっては、あんまり先を見てもらっても困るし、歴史を参照してもらっても困るし、災害みたいなものは基本的にはなかったことにする。もちろん防災設備だとか耐震設備だとかいろいろありますよ。だけど、それは極めて型通りのものであって、それ以外のことが来たら壊れる。だけど、そんなことは気にしないわけだ。まあ、そんな話で動いている東京ってのは本当に危うい町だなとは思う。むしろ、東京以外のところの方がまともなものが見られるし、勉強するんだったら、そういうところの方が知恵があるのかなっていう気は最近しますけどね。東京はいろんなものが見えにくい。

羽藤 内藤さんが言われるように、東京って、すごく資本が重要なのでリスクを絶対にヘッジするし、そこそこヘッジされている分文句もつけにくい。だけど、そういうことの繰り返しで、昨日も判決出てたけど、東電の幹部が13兆円賠償請求されるみたいなことが起きているわけじゃないですか。だから多分、怒りってみんなあると思う。実際に今、東京から人が地方に展開していくようなことがコロナを契機にして起こっていたりもする。災害に対して、どういう風に小野田先生とか内藤先生がやってきたことも含めて、新しい東北が形が姿を現していて、それをどれだけの活力を持ったものに、美しい生き方ができるようなところにしていけるのか。というのが次の災に向けた間の取り方というか、使い方としてはすごく重要。そういうことを国土レベルで提案したり示していくことがU30の中でも色々な敷地で見えてくると、それが運動論になったり、新しい国土論みたいなものになって展開されてくる可能性もあると思うんです。

だから、こういうテーマを扱うんだから、思い切ってほしいし。普通の考え方じゃないことを、このコンペだったら審査員の先生結構見てくれていると思う。普段私はグループワークをしてちょっと違和感を感じているな、こんなこと思っているんだけど、みたいなことを表現してもらって、次の国土像に繋がるような建築、都市、土木の在り方もあわせて見せてほしいなとは思っています。

内藤 平たく言うと建築も都市も土木も今は低迷してるよね。見かけは繁盛しているみたいに見えるけど、急速に中身が空っぽになってきている。何か希望のようなものが見えない。そこに自分の人生をかけて情熱を注ぐだけのものが見えてない気がするんだよね。でも、それが何なのかっていうのをよく考えた上で、壊すべきだと思うんだよね、その感じっていうのは。考えなきゃだめだよね。

羽藤 そうだと思いますね。やっぱり成功を積み上げ過ぎたって言うかな。ついつい丹下さんや磯崎さんを参照したりしちゃうんだけど。過去の戦災復興からの遺産というものがものすごく大きい。だけど、そういう形じゃない国土の形、都市の形っていうのが今なら出せそうじゃないですか。こういうリモート技術もあって、東北のいろんな蓄積もあって。そこから考えられる新しい都市の形っていうのは、過去の復興とは違う、時間の中での間の取り方、社会のあり方みたいなものを提案できる。それがああ、なるほどって思ってもらえるようなそういう空気感もまたあるんじゃないかと思うんですね、逆に。今煮詰まっているっていうところからすると逆にです。そこに余地、やりがいを見つけて、それを絶対に提案してやるっていう覚悟で見せてもらえたら、めっちゃ益子さんも嬉しいんじゃないかなって思いますけどね。僕らも。

内藤 なんとなく建築・都市・土木っていうのが繋がりあうとしたならば、僕自身の体験で言うと、僕の若い頃にあったEXPO70、大阪万博ですね。そこから50年ちょっと経っていて、1970年とか1969年がこの国の分かれ道だったと僕は思っているんです。それはどういうことかというと、あの時はまだ政治的にも社会が右側に行くか左側に行くかも迷っていた。あの頃から多分、日本は商業国家になるって決めたんですよ。60年代はどっちに行くか分からなかったけど、だからいろいろ学生運動があって、左側に行くかとかいろいろあったわけだけど、70年のあそこの時点で、我々の国ってのは商業国家になるんだ、っていう合意をみんなが暗黙のうちに作ったんだと思う。その象徴がEXPO70だったわけですよね。

それでずっとやってきたんだけど、バブルがあってバブルも壊れて、それで大きい災害が襲ってきて、どうもそれだけじゃうまく説明できないよねっていうことになった。今やこの国はハッキリと二流の商業国家になりつつありますが、それはむしろ良いことで、ようやく大人の議論ができる土壌が揃ったんじゃないかなという気がするんです。生活が何か、暮らしが何か、自分たちが誇りを持って生きるとは何か。自然との付き合い方とか、新しい技術との付き合い方とか、そういうものが都市の形になる、暮らしの形になるという時代がようやく来たのかなっていう気もするんです。そこでデザインが出てくるわけね。

つまり、頭の中で考えてることはわかった。君が言っている頭の中のことは正しい。ではそれをどうやって姿形で誰にでもわかるような形に引きずりおろしてくるの、というところにデザインの話が出てくる。

羽藤 間違いない。

内藤 それがないと分からない、みんなきっと。言葉では説得されるんだけど、もう一つなんか納得感がないっていうか。でも形で出てくると、あ、君の言いたいことはそれだったのね、っていうことがわかるじゃないですか。なので一つは、この国の大きい流れをイメージした上で、それと今との乖離があって、それをデザインでどう埋めるかみたいな話になるのかな。それが過激なものである可能性も高い。

そこにはモビリティの話も絡むかもしれない、情報の話も絡むかもしれない、ひょっとしたらば医療の話が絡むかもしれない。要するにいわゆる社会インフラみたいな、かつて宇沢弘文さんが言ったような社会的共通資本という考え方はないものか。社会全体を保持していく仕組みと人々の豊かで自由な暮らしの間が埋められていないんだね、ずっと。その間をどう埋めるか、それは被災後ではなくて災間にやるべき話のような気がする。

災害が起きるとインフラの話がまず優先されるんだよね。災害復旧なんて資本主義的な考え方では無理ですよね。ほぼ社会主義だよね。インフラ整備が前面に出た時は高度社会主義みたいなものになるわけですよ。しばらく時間が経つと、地元の商店会でげんき商店街みたいなのが出てきたり、暮らしの話になっていくと、商業的な方に傾いていくわけです。なので、むしろ今ちゃんと考えておくべきは、社会インフラ。インフラというのは別に鉄道や道路だけじゃないですよ。医療も情報も全部そうですから。これはいわゆる費用便益で測っては本当はいけない部分、資本主義のルールには乗っからない部分で、それを災間の今やっておくべきだと思う。

羽藤 今の話を聞いていてちょっと目からウロコだったんですけど、土木はわりと共産主義的で、建築は自由主義的っていうのはまあ、なるほどなって思いつつも、地方の鉄道って今全部廃線にするかどうかの大騒ぎしてる。でもあれを突きつけているのは資本主義になったからですよね。国鉄がJRになったから彼らは資本主義的なやり方だとやっていけないってことになって、それは地方の形をどうしていくのか、という議論に今まさに火が移ろうとしている。でも、その地方の村村まちまちには中世近世から継承してきた独自の文化とか暮らしの姿があって、これを新しい社会の姿としてどういうふうに社会主義的な公平性とか平等性とか人があるべき姿ってことを含みつつも、実現可能な経済の理屈合理性を合一させるか。そこの形を描けるのは、こういうところに集まっている人たち、絶対ここにいる人じゃないと描けない。ものすごい重要な役割があるし、社会を変えられるエンジンになれるとしたら、我々、ここにいる人たちなんじゃないかな、と思う。

益子さんコンペたくさん出てくるといいよね。

益子 そうですね。大変多くのアイデアや着想をおそらくU30の皆さんは得られたと思います。内藤先生、羽藤先生、ありがとうございます。

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