第二回復興デザイン会議記念講演会・内藤廣✕羽藤英二 

2021年6月24日(木)18時より 、第二回復興デザイン会議記念講演会「複合災害と新たな都市像」を開催しました。

この中で、U30復興デザインコンペの解題として、U30復興デザインコンペ審査委員長の内藤廣氏、同じく審査委員の羽藤英二氏による対談を行いました。

対談・コンペ解題

対談者 内藤 廣(建築家/U30復興デザインコンペ審査委員長)

    羽藤 英二(東京大学教授/U30復興デザインコンペ審査委員)

記録  小関玲奈・増田慧樹(東京大学)

内藤 廣 解題

内藤 これは3.11(東日本大震災)の前、大学に籍がある時に書いた絵です。アカデミズムや役所システムには脆さがある。つまり、個別の災害に対して事後的に対処して、制度設計し直す。それはトータルにレジリエンスを向上させるものではない。何が言いたいかというと、これは「想像力の欠如」だと思う。何が起きてくるのかということに対する想像力が圧倒的に不足している気がします。

身近な例でいうと、四国のあるところで市役所の設計をしているのだけれど、国交省からの通達で、南海トラフが来た時の津波浸水高に対して有効な水囲いをつくれと言われている。浸水予想からすると建物の周りに1mくらいの塀をつくらないといけない。しかし、市役所に高潮災害の浸水はどれくらいなの?と聞くと、それより3mくらい上だという。全てはそんな感じで、南海トラフと言ったら南海トラフで、高潮や洪水は、それでまた対応するという事になっている。僕は、そういう災害に対して複眼的であるべきだと思う。

「複合災害」というものを考えると、大きい災害、大きい項目が起きた時は、それに引きずられて、次の別の災害がくると言うことだと思う。3.11の時であれば、地震と津波と放射線がついてきたようなところがある。大きなelementが動くと、必ず複合災害になるんだと思う。伊勢湾台風のときは高潮がついてきた。非常に大きいものが起こるとそれに付属して他のものがついてくる。

若い諸君に言いたいのは、こんな図を見ていると気が重くなるかもしれないけど、この国の国土はこういう場所であると。一面では、四季が豊かで世界でも有数の豊かな場所に住んでいるんだと思う。しかし同時に、災害を受け止めながら、自然の恐ろしさを感じながら生きなきゃいけない。建築・土木・都市計画は、それに対する想像力が欠如していると思っている。もちろん全員ではないが、ほとんどの人たちはそういう想像をすることに対して、逞しさを失っているように思う。

では、どうしたらいいか。何かが起きると考えても、考えていたこと以外のことが起きる。今は南海トラフのことで、頭がいっぱいだけど、南海トラフが来ると思っても、違うものがくることが多い。だいたい災害ってそうだよね。想定したことの外から来るという感じがある。僕は人間社会の最大の武器は想像力だと思う。人間という生き物の最大の強み。考えたもの以外のことが起きるのだから、とにかくいろいろと想像する。想像力を働かせる。そのためには面白がらなければならない。コンペみたいな試みも、面白がらないと、シリアスな話ばかりで下を向いているばかりでは対抗できない。だから、想像して、みんなで面白がる。そういう場所としてコンペを捉えてほしい。

僕が最近気になっているのは火山。みんな南海トラフと言っているけど、火山は大丈夫かなと思って、資料を見ると、貞観(864-866年)の富士山噴火の前後に相模トラフと南海トラフの地震が起こっている。だいたい相模トラフと南海トラフがペアで、その間に富士山の噴火があるような感じだ。有名なのは、徳川綱吉の時の、宝永大地震がすごかったが、実はその前に元禄関東地震、これは相模トラフだと思うけど、これが1703年に起こっている。その4年後に南海トラフ(宝永地震)が来て、その49日後に宝永の大噴火があった。これはものすごい噴火で、知られている限り、一番大きな噴火だった。そういうことが起こりうる。日本列島がある種、活性化しているので、若い人、U30の諸君が生きている間に、少なくとも南海トラフと富士山はやって来ると思っていい。

宝永の記録は、新井白石が残しているらしいが、宝永の当時になかったもので、近代的な暮らしを形成しているものは何かを考えてみたい。まず、当然電気はなかった。さらに自動車や鉄道もなかった。情報インフラ、コンピュータは当然なかったし、化学産業もなかった。そして何より原発がなかった。現代社会がこういうものを抱えて、もし同じような宝永噴火が起こった時にどうなるか、みんな想像すべきだと思う。少し本を読むと、火山灰の細かいパウダーが積もる。ガラス質らしいので、コンピュータが吸い込むと誤作動するかもしれないし、自動車も鉄道も動かなくなってしまう。さらにまずいことに富士山のあたりには、東海道やリニアなど交通幹線が通っている。

そして、僕が心配しているのは原発。浜岡原発は現在止まっているが、3.11の後に津波対策を厳重にした。防潮壁の嵩上げをかなりやった。ここでも災害は海からやってくると思い込んでいる。でも実際には山からかもしれない。原発のタービンに火山灰が入るとどうなるかという話を、誰か考えているのか。多分、止まると思う。複合災害とはそういうことだと思う。大きいことが起こると、非常に脆弱な近代システムがダメージを受ける。それは、水害、火山、それ以外も含めて様々な場合がある。そういうことに対する想像力が圧倒的にかけている現代社会というものを、今日は言っておきたかった。

羽藤 富士山噴火の話が出たが、僕も今、富士山噴火時の避難に関する仕事をしている。富士山噴火が起こった時にどう避難するかを周辺の自治体と議論している。富士山の麓に大きなスマートシティの情報都市を作る計画があるが、あるとき、担当の方と話をしたら、「うちは富士山噴火の被害範囲にはぎりぎり入っていないですよね」と言っていた。直接的に噴火被害という意味ではそうで、自分のところはある制約条件の中では大丈夫だと。でもそうすると、富士山に近い地域の人が避難できなくなる。外側の人が先に避難しないと道路容量にも限りがあるので、玉突き的に渋滞になって火山に近い人が避難できなくなるのではないか。このように、殆どのところでは自分の立場を超えた想像力を持った議論はまだまだできていない。規模が大きくなった災害の典型例だと思うが、想像力というワードを出していただいたが、富士山噴火をとってもできていないのだなと思う。

内藤 静岡県は防災訓練、防災の日の出席率が異様に高いらしい。駿河湾地震等の話が以前からあったので、県民の防災意識が異様に高い。全国で一番で、防災訓練の県民の2/3が参加しているらしい。僕は静岡を見習うべきだと思う。

羽藤 近代、明治政府以降の教育は、兵隊になってもらうために規律を重んじてきた。そういうのが、日本のそこかしこに残っている。ある面、避難という一つの災害を想定した教育に関しては、日本にはすぐれた規範を持っている気がする。だがそれが外れた時どうなるか。それが、複合災害、新たな都市像のキーワードになると思う。

羽藤 英二 解題

羽藤 内藤先生が複合災害についてのお話をされたので、私は、新たな都市像が過去にどのように描かれてきたのかを見てみたい。都市像というとき、過去、建築や社会基盤などの様々な分野で描かれてきた。

土木で言えば、八十島義之助先生が、日本全国に高速道路を張り巡らせる、国土レベルの流動性を高める様な分散像、均衡ある国土の発展を描いてきた。八十島先生はインターンシップで満州鉄道に行った人なので、戦災復興からの都市像・国土像を描いた人だった。

一方で、建築でいうと、丹下健三先生の平和記念公園が思い浮かぶ。1945年に原爆が広島に落ちて、「ぺんぺん草一本生えない」と言われた場所で、美しい緑と空地と都市軸によって、その中に原爆ドームに取り込む。世界から人が訪れ、平和を学ぶ場所になった。「平和の生産工場」ともいうが、こういうものを復興の都市像として描かれた。非常に痛ましい原爆という厄災から、我々の先輩が示した新たな都市像だと思う。

時間は飛ぶが、“september 11“、つまりワールドトレードセンターのテロがあった。その跡地に、槇文彦さんらの建築家がモニュメントとして、巨大な建築を建てている。群造形(group form)という言い方で、部分と全体を行き来しながら新たな都市像を描くという方法論を提案している。槇さんは代官山ヒルサイドテラスで、代官山に残る塚や樹木、湾曲する道、微地形の集積を読み込み、見る見られるを連鎖させ呼応させていった。今ある風景に呼応する形で都市を成長・生成させる作法であらたな都市像を描いている。

september 11は、アメリカの繁栄や政治に対するテロリズムだった。しかし、その痕跡をこのビルから垣間見ることは難しいと思う。その後の経済の繁栄のもと、september 11をこの場所から思い出すことは、丹下さんの表現と比べて難しくなっている。

次に、五輪危機というものがある。我々が複合災害ということを言う時、COVID-19を想像するかと思うが、その中で五輪をやるかやらないかということ、そもそも国立競技場をどういうフォームを建てるのかということは、非常に複合的な問題であって、それそのものが、新たな東京像を描く契機だと思う。ただ、現状では非常に大きな対立を生む形になってしまった。

戦災復興や高度成長の中で、対立が隠されていた時期が終わり、それぞれが持つ理想像の追求が行われている。その結果として、対立し、衝突が起きている。その対立に対して我々は新たな都市像を描けてきたかというのが問われているのではないか。

ここで、一つくらい意味不明なものを、と思います(笑)。イーガン(Greg Egan)というSF作家が、順列都市という小説で、暗号と計算で人の人生をシミュレートできるという世界を描いている。その中では、富裕層・中流層・最下層にそれぞれコンピュータを割り当てられて、富裕層は非常に高速で計算される分解能の細かな情報を得られるが、中流層は数秒に一度、最下層は数万年に一度だけ計算される、つまりこうした資源にありつけない、そういう社会を描いている。槇さんは現代について、情報のプールに我々は放り込まれている、という表現をするが、特徴量にバラバラに解体された都市と、現実の都市の間に、我々は分かれている、分人化して存在している。

様々な災害の中で、電気、化学、情報エネルギーがなくなった時にどうなるのか、という内藤先生の問いと同時に、我々はこういうものに非常に依存した形でリスクを回避しつつ、さらなるリスクの上に乗っかってしまっているということも言えると思う。

ここまでの話は主流派の都市像だと思うが(笑)、内藤先生は非主流派だと思う。現実の都市と、理想との距離があると思う。現実に対して、理想的な社会・都市像を強引に押し付ける、作ってしまうのではなく、理想との距離を認識しながら時間の中でそれを解決することを目指す。内藤先生はクロノデザインという言葉を打ち出されているし、時間というものを考えるべきだと言っている。

陸前高田で1000年に1度という津波に対して、どのように都市をつくっていくのかを考えたとき、一番海に近いところに慰霊施設を配置して、丹下さんたちがやったように、津波のこと、災害のことを知る場を用意し、山裾に向けて軸を設定し、そこに人に住んでもらう。時間をかけて安全な住まい方に移行していけないか、ということを考えている。また、同時に学校を建ててその周りに地域が自然するような計画をした。これが内藤先生の考えた新たな地域像ではないか。

ここでまた、土木の先生を紹介できればと思う。高橋裕先生、先日94歳で亡くなられた。高橋先生はダムを作って水害を守るという考え方が主流であった高度経済成長期に、流域という概念を示された。河川全体で地域のことを考えたらどうかという、非常に広い地域像、空間像を描こうとした。

国交省のHPをみればわかるが明治政府の治水対策、近代土木の最初は地先の制御だった。地先というのは、自分の家があってその地面の先の土地がひとつながりで管理された状態のことをいう。ある意味、地番のない共有地、入会地的な意味合いも含むと思う。

この土地が、ある時には田んぼに、遊水池になり、大きな河川にでる水の量をバッファとなってカバーする。あるときは祭りが行われる空間にもなる。様々に使われる地先の空間、言葉を変えれば荒地だが、居住空間の中で巧みに使ってきた近世の暮らし方に光を当てた。再近世化とも言えるかもしれないが、我々が持っている新たな技術と、地先のような土地管理の仕組み、暮らし方を組み合わせることで新たな都市像が描ける可能性があると思う。

高橋先生と同時代か、少し前にジェイン・ジェイコブス(Jane Butzner Jacobs)という人は、“Mixed uses,activating streets at different times of the day” と言った。都市において用途の混在がストリートを豊かにすると。

ニューヨークでは当時、摩天楼が建ち、高速道路が外挿されていたなかで、ジェイコブスはもっとゴミゴミとしたコミュニティの方に本当に意味があると言った。

また、ピーター・ホール(Peter Hall)は、“Planning disaster”という言葉を述べている。「計画災害」ともいうが、非常にマッシブな強い計画に対してコミュニティの方が問題意識を突きつけ、建築ではなくコミュニティに出ていくことが重要だと彼らは言っている。

それから、フレデリック・ワイズマン(Frederick Wiseman)による「ニューヨーク公共図書館」というドキュメンタリー映画がある。図書館の職員が地域の中に出ていって貧困の人たちに対し、地域の歴史、学びを支援する場所を提供するということをしている。NYの問題に対してコミュニティ・公共の側から答えを示している。こうしたことも複合災害を考える上で重要なテーマなのではないか。

最後になるが、大谷幸夫先生が、「空地の思想」という本を書かれている。その中で「建築がどんどん建つような時もあるかもしれないが、それが都市にとって全てだとも思わない。むしろ空地がただあるという状態が、都市にとって後に豊かな時を迎えるために必要な時間である」「逆に、今うまれつつあるものは施設として収容できないけども育ちつつある、そういうものを育てる空間として空地がいる」ということをおっしゃっている。

今、COVID-19で空地のあり方、distancingの意味が改めて問われている。事前に質問にも、Landscapeや公園をどう新たな都市像に位置付けられるかが重要ではないかという投げかけもあった。

複合災害でハザードにさらされたときに、機能で全てが最適化されていると余剰がなくなってしまう。それを防ぐ意味でも空地は重要だし、お金を持っている人だけでなく全ての人が公平・平等に集まり議論できる場が、資産になる、そうしたものをあらかじめ構想しておくことが必要だと思う。

様々な都市像が時代ごとに描かれてきたが、2040年には、年間に100万人の人口が減少する、つまり100万人都市がどんどんなくなっていくような時代を迎える。そこに富士山噴火や南海トラフが起こるようなとんでもない未来にも思うが、皆さんの出番を時代が待っていると思うので、そうした視点でも参加してほしい。

若い人にとって一番身近なのはCOVID-19だと思う。COVID-19に対し、新たな暮らし方に対応してきているのが若者だから、富士山噴火とか水害とか、あるいは社会に対して、大きく玉を投げてほしい。

対談

内藤 若い人たちにはぜひ自由に考えて欲しい。おじさんたちが枠組みをはめない方がいい(笑)

羽藤 解題ということで、皆さんに考えてもらうきっかけにしてもらえればと思っているが、現実には、皆さんの肌感覚で考えるもののほうが、説得力があると思う。なので、我々のいっていることに左右されないでほしい。

内藤 俺なんかは先が短い。羽藤さんも短くなってきている(笑)。本当は、若い人たちに俺の未来として語って欲しい。そうすると前の世代の連中はなんてことをしてくれたんだ、と言われるかもしれない。それでもいいので、自分のこととして考える未来を出してほしい。

羽藤 自分ごととして考えることが、現代社会で難しくなっていると思う。その中で、想像力を自分の未来につなげていく。これから、10年20年30年と若い方々が、都市と関わる中で描けるはず。ふるさとでもいいし、自分の住んでいる家の前の道でもいい。そこには必ず複合災害が直面したときに困る事があると思う。

内藤 そう思う。どこでも、掘っていくと、同じものに行き着く。大災害を掘っても、身近なものを掘っても、よくよく考えると、人が集まって住むということ、都市というものに対する本質的な問いが全てに共通してあるような気がする。

羽藤 それが見えにくくなっていたというのはある。ぼーっとしていると他人の痛みに気づかなくても生きていける。しかし強度の高い複合災害が迫り、それが我が身に及ぶ。それでは遅い。新たな都市像を描くときに、その都市に包摂される様々な人々のこと、社会のことを想像することが大事だと思う。

内藤 「都市とはそもそもなんなのか」、羽藤さんならどう答えられる?

羽藤 難しいですね。僕は都市学という授業を受け持っている。「都市とは何か」という問いに答えを出す前に、学生さんに聞くと困った顔をするんですが、僕もずるいから、授業ではいろんな学者がこう言っているという話をする。例えば、「密度が非常に高く、異質性が高いところで、制御が必要なところが都市である」と、都市社会学者は言っているとか、いろいろな表現がある。ただ、今の表現一つをとっても、巡り巡ってCOVID-19にはまさにそれが問題になっている。都市の外部経済、集積の経済が人を集めて魅力を集めたが、ウイルスに侵されるとそれが仇となって、コントロールできずに苦しんでいる。あるいは、人間的な阻害が起こるとか、そういうことを思っている。

内藤 コンペでアイディアを募ることに向けて話をすると、都市社会学者が言っているようなことは、解釈で、メタフィジカルなことだよね。解釈の仕方は何千通りもある。そういうことに対する禍々しさに対し、COVID-19みたいに、実際に起きていることが揺さぶりをかけてくる。だから今こそ若者は都市を語るべき。揺らいでいるから。都市って何、って言ったときに高密度だ、でもそうでなくなったときに、若い人たちに考えてよ、と。

羽藤 例えばある街区で、一個だけビルを抜いてみて、と言われたときに、ボリュームスタディで一つ抜いてみて、そこでようやく自分で考えてみることになると思う。自分自身で肌感覚のある場所に立って、密度という抽象的な言葉ではなく、高さが14mで窓が4つあって北向きのビルの前に立ってみて、そこに水害が起きた時に、上の人は助かるけど、下の人はどうするのとか、逃げ込むための階段が必要とか、水が引いた後に空地が必要だとか、考えが始まっていく。建築の大月先生は、こういうのを素振りと言っている。いい素振りなのかそうでもないのか、そうでもないにしても振り続けてみる。そういうある種のコーチングみたいなことがコンペでできるといい。複数の考えが同時多発的に運動論として展開されて、実際の都市が変わってくるきかっけになるのではと思う。

内藤 普通に考えると集まって住むのは時代遅れだから、地方・山間地で、分散居住というのがステレオタイプの議論としてある。このコンペのテーマで、それでも都市なんだというってことは、ある意味逆行しているビジョンだよね。

羽藤 それでも都市だろというのはある。

内藤 そこだと思う。だからこそ、今問いかけるべき。やっぱり人は会わなきゃダメだよねとか、会うことの意味や価値がある。反対に会わない意味もある。そこをみんなで考える。

羽藤 都市はやっぱりいろんな刺激に満ち溢れている。今の20代の人は2年間そういう経験をあまりできていないのはすごく大きなことだと思う。一方で、U30の人たちが、現実の体験より、ネットの中での体験を非常に色濃く、巧みに生み出しているような気もする。だけど、そこからもう一歩想像を高めてもらいたい。ネットでは避難できないし、命は助からない。人とも話せるけどフィジカルには会えない。そのことを都市の中でどう考えるか。ただ、僕自身は、内藤先生がいう地方とか田舎でのワーケーションのよさも可能性は感じる。

 ひねくれ者だからみんながそういうトレンドになった時は危ういと思っている。今はそんな感じ。都市からの流出がたくさんおこって、山間地にいて、夫婦でPCが繋がっていれば生活できます、空気はいいです、晴れれば農業やってますみたいなのは、ありがちじゃないですか。

羽藤 ハワードの田園都市もそうだが、お金をもった人がゆったりとした生活を送るというのが、都市から脱出ということではなく、在郷町のような場所、つまり近世から地形・地勢の中である程度集積した町方を持っているような地域で、資源を生かした地域像をネット的なものとの組み合わせて解く、という可能性はあると思う。

内藤 正しいことを言うようになりましたね、羽藤さんも(笑)。

羽藤 だけど、正しいことはおもしろくない(笑)。今みたいな提案だと審査委員長は納得しないと(笑)。

内藤 僕は議事進行するだけだけど、ステレオタイプ化した思考は脱して欲しい。それは若者の特権だから。

羽藤 最後に、内藤先生がもしコンペにだすとしたらどういう敷地を選びますか。

内藤 僕なら都市のど真ん中。どうしようもない超高層がたくさん建ち並んでいる都市のど真ん中。つまり、そのものがあることによって、周辺のものの価値がひっくり返るような何か。それは空地かもしれないし、何にも意味・機能がない建築かもしれない。そのものがあることによって、周りの意味が全部ひっくり返るような、そういうものが、都市にいくつも起爆剤のようにあると面白いな。

羽藤 なるほど。僕だったら福島をやりますね。まさに真っ只中で、本当に急激に人口が減ってしまった。だけど地域資源そのものは残っている。それをどうやって結びつけるかは面白いテーマ。ランドスケープ、モビリティから考えることもできるし、福島第一発電所そのものを考えることができる。というあたりでよろしいですかね。

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