女川町の復興まちづくりデザインの全て
第10回復興デザイン研究会では、「女川の復興のすべて」と題し、都市プランナーの方々に話題提供いただきディスカッションを行いました。
当日は、30名を越える方にご参加いただきました。参加いただいた皆様、ありがとうございました。
開催概要
日時: 2016年11月2日(水)18:30〜20:30
場所: 東京大学・本郷キャンパス・工学部14号館222号室
テーマ:「女川町の復興まちづくりデザインの全て」
タイムテーブル:
18:30 趣旨説明 窪田亜矢(東京大学
18:35 上条慎司(小野寺康都市設計事務所) 「女川の復興の概要」
18:50 宇野健一(アトリエU都市・地域空間計画室) 「住宅を中心としたプランニング」
19:10 小野寺康(小野寺康都市設計事務所) 「シンボル空間を中心としたデザイン」
19:30 ディスカッション
主催:東京大学復興デザイン研究体
議論概要
宮城県牡鹿群女川町では、”海を眺めて暮らすまち”をコンセプトに空間整備が行われて来た。東日本大震災で津波被害を受けたエリアには「シンボル空間」として商業施設と観光交流施設、高台には居住地を配置するという明快な土地利用計画がなされている。シンボル空間には、海と駅舎をつなぐレンガ道が通りその周りに商業施設が配置されており、高台住宅地では海への眺望を意識した配置計画がなされている。
女川町の震災復興計画は、早期段階で事業認可を受け、それを変更する形で計画が進められた。この様なプロセスの実現には、町の元々の資源の存在(町長や住民の気質)、適切な専門家の配置(コーディネーター、設計者、事業運営者等)、早期段階での予算確保などの条件によるところも大きい。震災復興計画は、初期計画から柔軟に変更可能であることが求められており、今後の事業手法を再考する際に、女川町の復興プロセスが重要な位置づけとなるのではないか。
質疑応答
窪田:2015.3というスケジュールは最初から決まっていた?
小野寺:最初から決まっていた
宇野:スケジュールを我々の悪あがきで遅らせたとは聞いていない。
窪田:そのときはどうしたらいいか分からない中で始まっているんですよね。
宇野:早い方がいいのはまちがいない。時間が経てば建つ程、柔軟性もなくなる。
小野寺:こんなに変更されるのかというところとの戦い。
窪田:新しい基盤空間、ここからはじまるんだという感覚はまちと共有出来たのではないか。他の地域でも、「出来るんだ」ということにつながった。
小野寺:他の所でも出来るかは分からない。女川では国交省に申請して予算を確保した。それ以外の所は同じ単価で出来ない。安く住民サイドのまちづくり会社で運営しながら知恵を使う感じにシフトした。
井本:メモリアル公園はどういう位置づけ?住民の方にとってどういう場所?
小野寺:2012年10月の段階では3〜4棟まとまった建物があった。見たくない人もいたが、最後は町長判断となった。海辺の交番、これだけ残すことにした。位置関係も絶妙なポイント。交番だけ残し他は撤去。いつもいつも露骨に見えるのではなく、見え隠れの状態にしておき、見たいと思ったらスムーズに行ける場所に。周りは造成されているが、倒れた交番は震災のときのレベル。下に降りて螺旋状に眺めながら、今のレベルにたどり着くと復興が見える。途中にはボランティアが来てくれた、や鉄道の復旧などの記憶をパネルなのか、言葉だけになるかは分からないが、ちりばめられている通路が現在に繋がるという。これは住民の方から出たアイディア。
窪田:どういったよびかけで住民参加が行われた?町内会などの自治会?
小野寺:平さんがとにかくコーディネーター。あそこには声かけないとまずいでしょ、とか。上手くやってくれる。
宇野:女川は被災前からいわゆるコミュニティ活動がさかん。代表の人もそうだし、代表でない住民の人も好奇心旺盛。なにかやるときは、その場所にすぐ集まる。
小野寺:若い連中も元気。ものすごい財産。漁師でなくてお店やっていたり。東京から戻って来てビアバー開いている人もいるし、新聞配達会社をしていた人が物産館の運営をやっていたり。
宇野:実際は、漸減傾向は続いている。
小野寺:会話が多いまち。いろんなとこでみんな集まってしゃべったり飲んだり。今はシーパルピアが出来たので、町長が毎晩寄っている。サロンみたいな感じがシーパルピアにある。
Q:最初の都市計画決定の事業計画は、最初からきめ細かく決める必要があり課題となっている。一度決まった計画を変更するというのは大変なのではないか。復興事業の最初のプランニングの仕組みはどうあるべきか?
宇野:個人的な意見では、最初に手を動かす人の影響はものすごく大きい。乱暴なプランニングがまかり通っていたのが今回の事業。誰も計画の善し悪しに意見出来る雰囲気でなかった。とにかく事業認可を得て早期工事着手の為に。事業を軌道に乗せる必要があったので。基本構想、基本計画、基本設計、実施設計4つの段階を経て事業認可を取るが、今回は基本設計が終わった段階で事業認可を取っている。1/2500のあたりをつけるぐらいで。 基盤施設をとにかく計画することが優先で、ディテールは後回し。本当は後回しに出来ないことが多いのだが。1:2500であっても将来の市街地像を想像しながら描いた基本計画と、それを次のステージで良いと後回しにした計画では全然違う。将来像を描くのは重要だが、限られた時間の中で、それを成し遂げるのは非常に高度なスキルが必要なので、致し方ないところもあったのかと思う。 加えると区画整理事業に限らず事業と言うものは、どんどんと変更した方がいいこともある。もちろん変更出来ない所もあるが、そのときにしか変更出来ないこともあるので、いかに踏ん張れるか、こだわれるか。
小野寺:正しいプランがあって、そこを大事にしてやるみたいな。それはマスタープランとしては正しいと思うが、震災復興の場合は現場から考えていくという、ブリコラージュのやり方も大事。今回の女川ではかなり荒いマスタープランで事業を通した。しかし、そこで踏みとどまることが出来たのは大事。マスタープランをもう1回やり直すのではなく、ブリコラージュで宇野サンみたいに「墓地がある、桜がある、昔からの地形があるからこの造成はまずい」そういう発想が入って来て、修正が可能になったのは、僕としては幸い。 一方で、最初のものが駄目だったとか、無駄だったとか言ってしまうと、もうキリがない。このような事業においては、さまざまなことが習慣的に同時並行で起きるので、それを調整しながら、誰かがビジョンを持ちながらなんとかそっちに行くのがいい。女川はそうやっている感じ。だから既存のまちづくりのモデルには乗らないと思うし、そこがかえってよかったと思う。
上條:最初のプランの制度と速度に関して思う所はある。大鎚の復興もやっていた。大槌では震災から1年半後にはかなり高いレベルのプランニングは検討していたが、ここまで来て進んでいない。女川が土地をすぐに売ってくれたし、事業スキームが明確で分かりやすかった。大槌は細かいところまでつめたが、土地が一カ所でも歯抜けになって進まなかった。町長が変わっただとかの問題もあるが。必ずしも最初に高い精度の絵を描くことが良い復興につながるかというとそうではない、難しい問題。
小野寺:町長が決断をしたっていうことも大きい。変えるという決断はするが、そこから先は強引でない。担当の声を聞くのが上手。女川町長もこのやり方はこの規模だから出来ると言う。石巻レベルだと出来ない。今回のやり方は、女川の規模で女川の人だったから出来たという特殊解。
参加者A:女川が上手く行ったのは、地元にリソースがあって、そこに良いチームが入れたことも大きい。URも女川を特別扱いしている。女川もそうだが、最後は人と人とのつながりでリカバリーしている。それが出来たとことそうでないところがある。予算を取らなくては行けない、事業をとにかく回さなければ行けないという現場の人たちの思いはあるだろう。
小野寺:一番はじめだったので、ほぼ満額で予算がついたというのも要因としてある。
参加者A:手法そのものが持つ問題はある。阪神のときから言われているが、結局手法として新しいものはつくられていない。
窪田:新しい手法を考えないと間に合わない。
Q:シーパルピアの最初の建物全体の企画は、まちづくり会社が主体でやっていたのか?
小野寺:あずまさんとまちづくり会社の会議に関しては知らない。僕らはある程度報告生が見えたところで、外構を含めて設計することになった。プランは途中でけっこう変わっていた。入るテナントも途中で変わるので調整も大変と思う。
Q:外向けのためにつくっている店と地元向けのお店に差はある?
小野寺:物販と飲食は分けている。完全に分けると、片方だけ盛り上がるで、その辺のさじ加減は重要。
Q:まちづくり会社が全体のさじ加減のコントロールをしていた?
小野寺:まちづくり会社の社長は遠洋漁業をずっとやっていた方。港街のお店ということを構想していた。今は自分でもお店を出しており、マグロさんをやって行列をつくっている。
Q:まちづくり会社のオペレーションが全てを決めている。
小野寺:建物は軽井沢のほしのリゾートにそっくり。空間のイメージは元々共有されていたのではないか。デザインはポイントになっている。リゾートではない、港町らしいスケール感を活かすところも上手く出来ている。
Q: 海を見ながら暮らすまちというは元々あったのか?大手コンサルが入った後に出来たのか?
小野寺:「海を眺めて」復興基本計画に「海に共に活きる」はあったが、「海を眺めて」はその後に出来た
Q:「海を眺めて」がはじめにあれば、最初からいい計画が出来たかも。
小野寺:防潮堤はすぐにやらないと決めていた。地形的に女川は丘陵地みたいなものなので、高台をつくりやすいということだった。他に行っていたことと言えば、「海でやられたが、海があればいきていける」と言うこと。「海が見えなければ仕事にならない、海を切った暮らしでない」、という声がこのまちはあった。
上條:震災前から、日常の一部(風景)に海がないという問題意識は元々持っていたらしい。
窪田:制度の構築も含め、そもそも土とどう付き合うかということを学校では教えていない。学校では教えてないけれど、土とどう付き合うかと言うことを、根本的に考えなくてはいけない。