内藤 廣 顧問 特別インタビュー(前編)

東日本大震災から10年を迎え、COVID-19によって社会のあり方が問い直される中、私達はこの経験をどのように生かしていくことができるでしょうか。2021年4月、復興デザイン研究体・内藤廣顧問にインタビューを行いました。

インタビュー前編は、東日本大震災からの復興を通して見えてきた成果と課題についてお話いただきました。

内藤 廣(東京大学名誉教授・内藤廣建築設計事務所)

聞き手・編集:萩原 拓也(復興デザイン研究体特任助教)、小関 玲奈(社会基盤学専攻 修士2年)

百年後まで伝える/拠り所をつくる

まず、陸前高田市でのプロジェクトについてお伺いします。高田松原津波復興祈念公園や市立博物館の設計をされています。軸線と大きなランドスケープが象徴的で、広田湾と松原、古川沼などの自然を含めて一つの祈りの場になっています。デザインにあたり、どういったことを考えられ、何を一番大切にされていたのでしょうか。(萩原)

むずかしい話はあまり質問しないように(笑)。

当初、復興祈念公園については、コンサルタントからの提案では山に向かって祈るとか一本松に向かって祈るとかといったような提案ばかりでした。僕は委員会の委員でしたが、いくらやっても話は迷走するばかりで答えが出なかった。広田湾ってものすごく美しい湾だと思うんですよ。祈るのか願うのかはわかりませんが、何か思いを向けるとしたらそれは広田湾しかないだろうと思っていたんです。それでサクッとスケッチを描いたらみんながそれがいいといいことになった。それを精神的なものに昇華させるためには提案する側に回るしかないと思ったので、委員を辞任して作業する側にまわりました。

三陸の復興関係で16の委員会の委員をやってわかったのですが、いまだに海のことが怖いっていう現地の人もたくさんいるんですよ。陸前高田の人でも、いまだに海は見たくないっていう人がいる。一方で、海を遠ざければやがてみんなあの災害のこと忘れてしまう。この矛盾をどうやって克服するかが裏にある主要なテーマです。

復興祈念公園はパブリックな意味での復興祈念であって、地元の方が亡くなったご家族のことに対して思いを致すという場所ではないと思っているんです。新しい街中に建てられる博物館の隣に慰霊碑を作ることになっています。そこが地元の方が亡くなられた方を悼む場になるのだと思います。復興祈念施設は、どちらかというと災害をマクロで捉える、大きな意味で災害とは何であったかっていうことを思い出す場になればいいなと思っています。

メッセージとして明解な二つの軸線があり、それをランドスケープとしてどこまで和らげられるかということをずっと考えていました。まちや前の国道から見たときもね。もちろん市民の方もいずれは復興祈念公園に来てくださるとは思うけど、でも直接的に被災をされた方々にはまだまだ行きづらいかもしれない。しばらくは僕らみたいな外の人間が祈念公園に行くんだろう、と思っています。

復興祈念公園には震災遺構が遺されているかと思いますが、外の人に対してという意味で遺されたのか、それとも地元の人が、いずれ、時が来たときに足を向けるというイメージだったのでしょうか。(萩原)

震災遺構に関しては壊すって話も随分あったんですよ。戸羽市長にも何回か具申したけれど、複雑な市民感情を考えれば、市としてはすんなりとは遺すとは言えなかったと思う。ところが、復興祈念公園に関する地元陸前高田の委員会だったと思いますが、委員会のメンバーだった青年商工会議所の人が、「長い時間の中では言葉だけでは伝えきれない。やっぱりモノを遺すべきだ。」と発言したんです。それまでは、遺さないという意見の方が多かった。この発言を受けてメンバーだった婦人会の会長も、やっぱりそうだね、って言われたのでようやく大勢が決まったんです。その一言がなければ震災遺構は遺らなかった。そのお二方の決断で震災遺構が遺った。今でも脳裏に焼き付いていますが、お二人の発言は立派なことだったと思います。

事実、みんなどんどんあの時の実感を忘れていっているし、記憶は遠ざかっていく。それはそれでしかたがない。明日を生きるためには、忘れていくこともひとつの方便です。あんな重い事実を抱えながら明日を生きてはいけないからね。

福島は現在進行形だけど、三陸に関してはもう一段落みたいな気分がすでに出てきている。僕は岩手県の防潮堤に関する委員会の委員でしたが、津波がご専門の首藤(伸夫)先生(東北大学名誉教授)が、ともかく津波は防潮堤だけでは防ぎきれないって繰り返し発言されていたんですよ。震源の位置と地形と波形と干渉波との組み合わせで、津波は極めて個別的なんだ。シミュレーションなんかいくらやっても、参考にはなるけれど役には立たない、と。しかたなくL2ではなくて、L1対応みたいな話で一応収まったことにしているわけだけど、それだってわかんないんですよ。

一応そういう前提でいろいろ決めてきたのに、立派な防潮堤ができるとみんななんかもうすっかり防げた気になっている。この何か薄まっていく曖昧な危機感を、100年後まで減衰しきらずにどうやって伝えられるかっていうのは、やっぱり震災遺構みたいなものがないと、いくら努力してもうまくいかないのかなっていう気がしますね。その意味で遺した意義はとてもおおきい。他の三陸の街では、ほとんどなにも遺っていないんだから。

高田松原津波復興祈念公園(撮影:萩原)

続いて南相馬市小高区川房行政区で手がけられた石造りの公民館(川房公会堂)の再建について伺います。南相馬のプロジェクトでは特に地域の皆さんと、内藤先生がお話しされていました。手掛けられた建物は本当に農村の小さいものですが、お話されたことを踏まえて、どういった空間を実現しようとされていたのか伺えますか。(萩原)

窪田亜矢さんからの要請で、小さな公民館(川房公会堂)を新しく建て替えるので見てほしいと頼まれました。だけど、新しく建てるってことは手がかりがなくなるってことだよなとも思っていました。実際に訪れてあの石造りの古い公民館を見たときに、すごく立派な仕事をしていると思ったんですね。あれだけ地震で揺すられたのに、組石造なのにクラックひとつはいってない。モルタルの目地も傷んでいない。それは素晴らしいことです。

あの地域にしっかりしたものを建てようという強い愛着が、あれを建てた人にあったからです。それってなんかすごく大事なもののような気がしたんです。だからできるだけ、もともとの建物を壊さないようにしたいと意見を言いました。

やっぱり誇りかな。誇りを持ってもらいたいっていうことかな。地域を何とかしようという気持ちを挫くようなトンパックの巨大な仮設置き場が(川房公会堂の目の前に)あるじゃないですか。いずれなくなるにしても、あれは気持ちを挫く。それで、少しでもみんなの誇りとなり拠り所になるようなものを提供したいっていう気持ちで公民館の改修をやりました。ただ正直、地域の現状は厳しいなと思いました。

我が身のこととして向き合う

川房行政区では帰還された世帯も十数世帯、後継者もいないと伺っています。福島の復興はなかなか先が見えない中で、今後に向けて、必要と考えることについて伺えますか。(萩原)

福島に関しては本当に難しい問題だと思うんですよね。廃炉も50年、ひょっとしたらさらに伸びるかもしれない。不確定なことが多いし、処理水も含めて安全な状態でい続けることが可能かどうかっていうのもわからないわけですよね。厳しいなと思います。ただ、国側からは、早く忘れてほしい、地域のことはあきらめてほしい、みたいな気分も伝わってきますよね。なんとか収まっている今の状況を崩せないんだろうね。でも、それには逆らいたい。

実はかなり前からある種の暴論として思っているのですが、90年代に首都移転っていう議論があって、候補地がいくつか挙がって国会でも議論していた。その候補の一つが阿武隈山系だったんです。阿武隈山系は、どうやらその候補地の中で一番国有地が多いらしい。ということもあったので、この際その議論を復活させて、阿武隈山系に首都機能の一部を移転したらどうか。行政側に決定打がないのなら、そんな話をしてもいいのかと。

要するに福島のことを真剣に考えるなら、東京からじゃなくて、あそこに拠点を作る。例えば復興庁でも科技庁でも国交省でもいいんだけど、そのぐらいの国策で臨まないと収まらないんじゃないかなと思うんだよね。そうすれば、雇用機会も増えて、人も集積するかもしれない。リスクを肌で感じて、自らのこととして向き合う。廃炉技術とかその廃炉に関わる長い時間にどのように向き合うかによって、新しいテクノロジーが生まれたり、あるいは似たようなことが世界のどこかで起こったときの助けになったりとか、全部福島から考えるぐらいのことをやらないといけないはず。

あの美しい田園地帯を地元のみんなで頑張ってなんとかしよう、というだけでは乗り越えていけないような気がする。人間の文明の根源的なものに触れているわけだからね。国策としてそのぐらいのことがあってもいいんじゃないかと思っています。

全体として当事者意識を持った形で、そういうのを取り組んでいくべきだということですか。(萩原)

そう、科技庁ぐらいはそれくらいのことはやってもいいんじゃないかと思うんだけどね。じゃないと、東京から見た福島の復興にしかならない。原発をあの距離に置いたっていうところに、戦後日本の全ての意識があるんじゃないかな。そんなに安全だったら東京に近いところに作ればいいじゃないかって話だってあるわけだからね。そのこと自体を見直していかないといけないはず。

基本的に僕は原発には反対だけど、ひょっとしたらこれからの厳しい世界状況を考えれば、原発だって必要になる局面があるかも知れない。ただそれを真剣に考えるためには、やっぱりもっと近いところで当事者として臨むべきでしょう。そうしたらみんなが我が身のこととして考える。だけど、今の距離感っていうのは我が身のこととして考えにくい距離感だよね。他人事にしかならない。

南相馬市小高区川房公会堂.石造の本棟(写真右)を残し、増築部(写真左)を改築した.(撮影:萩原)

「安全」という建前がもたらした固い復興

内藤先生は学会誌等で東日本大震災の復興について「固い復興」と表現されています。そのようになった要因はなんだったのでしょう。(萩原)

当時は民主党政権だったわけですが、おそらく国家存亡の危機は三陸になかった。国家存亡の危機は福島だったんですよ。風向きによっては、首都圏退避の直前までいったわけだからね。3000万人をどっかに移さなきゃいけない、という今日明日の緊急事態が半年ぐらい続いたわけだから。そうすると、三陸は100年か200年に一度の津波災害というのがこれまでもあったわけだから、個人の権利がどうだとか、そんな議論をする暇もなく、現行法の枠内で解いて答えを出せ、ということだったんじゃないかと思います。

そうなると、勢い固くなってくるよね。建前上、防潮堤で防いだことにして、安全かもしれない内陸部を作り、防災集団移転をやり、区画整理をやり、ということですよね。その固いプロセスの前提には、「安全」と言わなきゃいけない。安全かどうかわからないところの土地で区画整理はあり得ないわけですからね。土地っていうのはいわゆる土地法(土地基本法)にしても都市計画法にしても、国が定義しているわけだから。そうしないといろいろな法律のスイッチが入っていかない。その前提に防潮堤がある。それをともかくはじめのスイッチとして入れて、次々と制度運用をやっていくというプロセスだった。それは極めて官僚的な「固い復興」の仕方っていう気がする。

安全について考えるのをもう少し後にするということはあり得たのでしょうか。(萩原)

いや、当時のあの状況を考えれば、国はそうせざるを得なかったと思うんですよ。「安全かもしれない」というグレーゾーンであっても、安全と言い切る。じゃないと、いわゆる法律が動かない。だから補助金だって動かない。役人的な考え方だと、安全かどうかわからないところに町や村を作って、何かあって訴訟されたらアウトですからね。それはしょうがないね。

じゃあどうしたらよかったのか。基本的に僕は、もうちょっと山側居住のように、集住の仕方とかを前提に考えるべきだったと思います。だけど時間が経っていけば、個人個人、みんなが自分の権利を主張して元に戻りたいとか、この土地は離れたくないとか、言い始めるわけだよね。そうなると、膨大な労力を投下してそれを調整しなきゃいけなくなる。防潮堤は防潮堤で、防ぎきれるかどうかわからないけれども、防いだことにしないといけない。そういういろんな矛盾を孕んでシステムが動いていて、だけど、あの時間内でやろうと思ったらしょうがない。だからこそ平時に事前復興を真剣に議論し考えておくべきなんです。

それから、今回の復興に関して、農水省が話題にのぼらないですね。だけど僕は裏の主役は農水省だったと思っているんです。例えば、大槌なんかは海と共に生きるって言っていたわけだよね。防潮堤はつくるけれども、港湾と街との関係が大事じゃないかとずっと街の人たちが言っていた。でも港湾は県の管理で、漁港整備には触れられないし街との関係も作りようがなかったんですよ。これは水産行政の問題。それから陸前高田の今泉の高台移転だって、街に近くてもっと低いところにも適地があったんじゃないか思うんだけど、そこは林野行政で補助金を出しているので駄目ですということになる。これは林野行政。それから畑は低地の河川沿いで塩に浸かって、全部土を入れ替えないと稲作もできないような状態がずいぶん続いたけど、そこを仮設住宅にしたってよかったわけですが、優良農地の補助金を出しているのに別の利用は駄目です、となる。これは農業行政。しょうがないので、仮設は小学校のグランドにするか、ということになる。

農水省がもっとフレキシブルに対応してくれたら、仮設にしたっていろんな土地の手配にしたって、もっと柔らかくできたはずなんだけど、そういう話をした人はあんまりいないよね。国交省だって復興庁だって、手足を縛られた状態でやらされているようなところがあって、その裏には農水省がフレキシブルに考えなかったっていうことがあると思いますね。だってあんなに土地がたくさんあったんだからなんでもできるはずなのに、なんで小学校の狭いグラウンドで隣棟間隔3mとか4mとかで仮設をやんなきゃいけないんですかってだれだって思うじゃないですか。

動的な状態に対する計画学

たしか、国交省がガイドラインの修正をするときに、岸井隆幸さん(日本大学)が弾力的運用みたいなものができないと駄目だという主旨のことを喋っていましたが、その通りだと思います。それから、復興のスピードが遅いと戻る人がどんどん少なくなることも留意すべきです。高台移転の希望者なんてどんどん減ってくんだからね。当初は、陸前高田の丘の上の今泉地区なんて、花崗岩の固い山を40m切り下ろして移転場所を造ろうとしていた。バサッと切り飛ばす計画だった。それで切り出した土を運ぶための前代未聞の巨大なベルトコンベアが作られた。でもそれが途中で半分ぐらいのところで止まってしまった。移転希望者が減ったんですね。平時とは違って計画の与条件がきわめて動的なんですよ。人の気持ちも激しく変わっていく。だから計画や制度運用をフレキシブルかつ時間的要素も加味して考えていく必要があったと思います。これは三陸の復興とかこれからの復興の基本的かつ本質的な問題だと思います。

今のコロナに重ねて言うと、こうします、ここに希望を託しましょうとか、そういう強いビジョンが示せれば、たぶん人は耐えられるんだよね。だけど、どうなるかわからない、希望も託しきれない、みたいな状態が長く続くと、計画主体もその計画自体も信頼を失って駄目になっていく。だからむしろ復興っていうのは、手前で立てるビジョンがとても大事なんだね。

それこそ、都市工が中心になって、そういうビジョンがガチッと提示できていれば、もっとましな、いわゆるエクソダスが少ない状況が作れたかもしれない。それが示せなかった。結局、一手遅くビジョンを提示しても、その頃には子供が移転先て学校に通っているとかで戻ってくるのが難しくなってしまう。ここは時間との競争だね。最近の学術会議での議論で、浅見(泰司)さん(東京大学都市工学科)が「動的計画」という言葉を提案された。ゴールポストがどんどん動いてく、そういうものに対してのビジョンの立て方とか計画の作り方ってあるんじゃないの、ということを話していましたが、これはまさに復興にも当てはまることだと思う。

復興庁事務次官だった岡本全勝さんがたしか新聞記事で話していましたが、防潮堤やまち造りの計画では、地元負担がゼロで、100%国費だったから見直しが出来にくいと。今後そういう計画の見直しをどうしていくのかがおおきな課題だと言っている。つまり、国庫補助でこれでいくって決めると、動かせなくなっちゃうんだね。だけど、実際には極めて動的な状態だと僕らは考えるべきで、その動的な状態に対してどう計画を馴染ませていけるかという新たな計画学がこれからは必要なんじゃないかと思う。一時的な移転も永久移転にならないとかね。場所によってはその逆もあるかもしれない。そうすると地域がリカバリーする速度が速まるはず。人が少なくなっちゃうと、どうにもならないわけだから。

同じ新聞で、陸前高田の戸羽市長は、復興は形としては終わりに近づいているけど、5年後10年後に人口が流出したとき、あの復興はやるべきだったのかという観点が出てくるかもしれない、とまで言っているんですよ。これは重い。大胆な発言にちょっと驚きました。ひょっとしたらそうなのかもしれない。だからそこまで踏み込んで、やっぱり復興をもう一度謙虚に振り返る時期に来ているんだよ、きっと。

「公共の福祉」を考える

そもそも計画自体をもう少し簡素化して行うべきなのか、あるいは、違うあり方もありえるのでしょうか。(萩原)

三陸で起きたことを参照して、違うあり方を考えておくべきなんだろうね。順番待ちで南海トラフも控えているんだから。そうでないと同じことを繰り返すだけだし、南海トラフの被災規模は東日本大震災の15倍で、経済的にも同じやり方は絶対にできないわけだから。

どうすればいいのかっていうと、実は憲法解釈の話にもいくんだね。つまり個人の人権をどの程度制限できるのか、一時的に。震災直後には、野城(智也)さん(東京大学生産技術研究所)たちが東大試案(*1)として復興庁に出したけど、一時的に、例えば個人の権利制限をするということが可能であれば、もうちょっと計画を立てやすかった。でも、全然聞いてもらえなかった。あまりに大きなことが起きてしまったので、行政の側はフリーズしちゃったんだよね。土地の権利だとか、いわゆる生活権だとか幸福権だとかに縛られて、現実には身動きがとれなかった。個人の権利は憲法で保障されているわけだからね。それを言われたときに返す言葉がなくて、そうすると権利調整で時間がどんどん経っていく。

そうこうしているうちに、防潮堤を決めなきゃいけない、区画整理をやんなきゃいけないみたいな、制度的な話に固まっていっちゃった。憲法第13条では、要するに個人の権利は最大限尊重されなければいけない、といっている。これは当然のことですよね。だけど公共の福祉に反しない限り、という但し書きが付いている。「個人の権利」と「公共の福祉」は他の法律でも常に並列で書かれているわけです。民法でも同じような条文で書かれている。「公共の福祉」という言葉は、そのさらに下の土地法(土地基本法)にも、それから都市計画法にも「個人の権利」と並べて書かれている。不思議なことに建築基準法だけないんだけど、いろんなところに出てくる。要するに復興というのは、究極的には「個人の権利」と「公共の福祉」をどうバランスさせるかという話なんですよ。

例えば、議員立法かなんかで、被災地エリアに限って時限的に3年とか、とりあえず「個人の権利」を脇に置いて、「公共の福祉」を優先させるっていうやり方はあったんじゃないかと思うんです。この議論は、実はコロナ騒動が起きて、最近になってようやくやっているんだよね。憲法学の長谷部(恭男)先生(早稲田大学)が「個人の権利」を一時的に制限する、「公共の福祉」を優先するって話は可能だって言っている。すでに「ため池訴訟」で結論が出ている、と(*2)。ため池をその所有者がメンテナンスしないといけない。個人の所有なんだけど、そこが決壊するとみんながたいへんな目にあうわけですよね。それが訴訟になって、もう判決が出ている。

だから、むしろ都市とか土木も、平時に「公共の福祉」とは何かって話を深めておくべきです。いつでも振りかざしていい話ではないけれども、何か大きな災害が起きたときに、ここまでは時間を限って「公共の福祉」を優先させましょうとか、そういうことはあってもいいんじゃないかなと思う。実はこれこそが「公」の意味そのものなんですよ。もちろん、都市の意味そのものでもあるのですが。

2021.4.7 内藤廣建築設計事務所にて

後編に続く

*1:東大試案とは、東日本大震災直後の2011年5月に野城教授を中心とした有志によって行われた政策提言:「『ふるさと再生』を実現するための土地の所有と利用の流動化方策」。 https://pari.ifi.u-tokyo.ac.jp/earthquake/plan_landuse.html

*2:いわゆる「奈良県ため池条例事件」。以前からため池を使用していた農民が、条例でため池の使用を禁止された以降も使用し続けたために条例により罰金刑を受けた事件。長谷部氏は「(長谷部・杉田考論)コロナ対策『罰則』と『自由』と」(2020年7月26日朝日新聞)で言及している。

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