第8回復興デザイン研究会の報告

東日本大震災の復興の現場

第8回復興デザイン研究会では、第8回では、「東日本大震災の復興の現場」について、都市計画コンサルタントの方々に話題提供いただきディスカッションを行いました。
当日は、20名を越える方にご参加いただきました。参加いただいた皆様、ありがとうございました。

開催概要

日時:2015年10月29日(木)19:00-21:00
場所:東京大学本郷キャンパス工学部14号館222号室
神谷秀美氏(株)マヌ都市建築研究所
「陸前高田市民による復興のプロセス」
内山征氏(株)アルメック
「被災地における実践型プランニング(越喜来地区、吉里吉里地区)」
中川智之氏(株)アルテップ
「福島における住まいと暮らしの復興に向けて」
主催:復興デザイン研究体/Urban Redesign Studies Unit

話題提供

「陸前高田市民による復興のプロセス」 神谷秀美氏(株)マヌ都市建築研究所

 陸前高田を対象に都市計画コンサルタントとして活動。たまたまボランティアで入り、市民の要請に応える形で活動している。訪問回数は2011年4月から100回を超えている。
陸前高田市は人口24,000人の風光明媚な場所、99%のエリアがなんらかの影響を受けた。
・2011年4月7日に最初にいったときの市民との対話
1)生業の復興が最初。人口減少も厳しい。生業がなかったら意味がない。住宅より生業だ。
2)住宅ではなく、漁業商業農林業の環境を整えないといけない。
3)仮設市街地をつくって、買い物やいろんな生活の利便性や漁具の購入元や、いろんなものがパッケージにされた環境が必要。
4)おちついたところで、復興マスタープランをつくろう。
①広田地区での活動:
・東の半島部分。震災後は孤島になっていた。三日間、自衛隊と米軍がくるまで孤立。地区によって被災のレベルが全然違うため温度差がある。
・孤立していたため、地区内の小学校などに集まって避難生活を送っていた。そこにみんな集まっていたので、いろんな話し合いができた。この地を離れる若い人がいなかった。
・2011年8月時点で、様々な復興イメージを地域の人がもっていた。地主も自分の土地使ってくれということになった。話した意見をまとめ、市に要望書を出したが回答はなかった。そのまま12月に復興計画が出てきた。回答がなかったことに、住民は不満だった。自分たちでやるから専門家を派遣してくれ、となって、神谷氏が派遣されることとなった。
・マスタープランは、行政に要望するのではなくて、自分たちが実現する計画。
最初は、2月26日に会議を開催し、参加者は54名と多かった。
自分たちでやる、将来がいいことが大事、復興後の継続的なまちづくり、という三本柱。
復興のプロセスは以下のように考えた。
まず生業の復旧(港)、次に保育所の高台移転(浸水したところ、住宅よりも先に保育所をもっていってくれ、すでに再開していた)、避難路、低地と防潮堤は最後で良い。
・1年後、今後の課題が何かを話し合った。1年間の間に住宅地の位置と防潮堤の高さしか決まらなかったので、こんなことじゃいかん、もっと市民でやろう、と。防潮堤について、被災していない人もふくめて、補助金もらってみんなで議論しようということになった。
風力発電をいう具体的なものをもってこようとなり、市に提出して、意向を示した。
風力発電所も実験的につくった。東電に売電していないので、災害がおきても大丈夫。
・全員参加の逃げ地図ワークショップも開催。各集落で避難所にどういう問題があるか、中学校、漁協の女性WS、外から来た人のナビゲートなど。
・実際の事業のプロセスはどうなったかというと、公共施設や骨格道路は国の方針により、防潮堤が真っ先に進められた。一方、生業の復旧、宅地造成のあとに漁港の復旧という流れとなった。農地には未だ手がついていない。防潮堤の復旧のために、農地が使えないから。生業が犠牲になっている状況。
低地使うには、避難地避難路が大事、だが、まだ議論は、始まっていない。
・専門家として何が期待されていたのか。1年後に話した時の5点。
1)市民の相談役
2)市と住民のパイプ役
3)外部支援の調整役
4)庁内各課の連絡役
5)復興事業に関する国・県との調整役
足りない部分を補うなんでも屋をやってきた。
②今泉地区での活動:
・気仙の中心だった地区で、550世帯中残るのは10世帯(非被災は1世帯のみ)。
・「先祖になる」というのが合言葉
1000年かけて前の被災から立ち直ってきた。だから10年で復興することは無理。先祖にできたことを自分たちもやろう。ということになった。
・九州工業大学や九州産業大学の先生が提案してくれ、木の集会所をつくった(2011年12月)。完成もちつき大会を行い、離れていった住民が皆もどってきた。
次に自宅をつくった。区画整理の外だったため住宅を建設しても問題なく、浸水エリアに増えていっている。その外に、地主さんが家つくりたがっているということで、戸建て70戸を建てた。酒をつくる。農地も自分で復旧し米をつくり、酒もつくって、売っている。
・今泉地区の復興の特徴は行政には頼らない。
1)全体計画なし、おもいだけで走る。
2)自然発生的
3)自発的
4)生きるため=ただそれだけ。原始的なまちづくり。
これにどう専門家として向き合えるか、もしかしたら無力かもしれない、でも頼られる。

「被災地における実践型プランニング」 内山征(株)アルメック

・釜石のぞいて、すべての市町の小さい漁村集落にかかわってきた。建築でも土木でもない、まちづくり、ソフトの取り組みを行っている。
実践型プランニングとは、通常は計画を策定してから、実践にしていくが、実践型は、まちづくりを実現してから、体制やスピードを確認してから、計画を策定していくというもの。
①大槌町吉里吉里地区
・低地の半分ほどが被災しており、コミュニティが崩れていて、その再生が大きな課題になっている。
・吉里吉里は昭和8年にも国のモデル地区で、高台移転していたが、今回被災した。二回目の高台移転となった。現在は防災集団移転事業もほぼ終わり、区画整理も進んでいる。
・「若い世代が息切れしないこと。若い世代のためのまちづくりが必要だ」。というモットーの元、明日の吉里吉里プロジェクトを自分たちで進めて行こうということになった。人口が衰退傾向にあったので、活力を維持するためにみんなでできることを考えようということになった。
・活力を維持していくために、以下を目標とした。
1)子育てできる環境、
2)高齢者が働く場づくり、
3)独居老人の見守り、
4)交流、
5)誇り・魅力そのPR、
・国の補助金もついたので、全戸にチラシを配布して、アイディアや意思もっている方に集まっていただいた。10団体、20名ぐらいの方が集まって、スタートし、全19事業(サマースクール、リラクゼーション事業、サーフプロジェクト、広場の運営事業など)を実施した。
②大船渡市越喜来地区
・低地部が流され、現在防潮堤が建設中。まちの中心部が被災した。
・現地に入る前から既にまちづくりが始動していた。自主的に資料館つくったり、羊を放牧したり。美しい景色とかサポーターが財産となっていた。
・平成25年の春から付き合いが始まり、地区の復興委員会によばれたのが最初。将来にわたって(吉里吉里よりも過疎が厳しい)一緒に考えてくれ、と言われた。
・低地部分の土地利用について、予算をあげてくれといわれたが、まずは資源の確認からはじめた。
・人口の低減についても調査したが、衰退傾向は止められない。一方、定年後に帰ってくる人はそこそこいるので、そういった人を受け入れるコミュニティを作っていこう、あとはファームなどでの交流で活力を得ていこうということとなった。
・浸水低地の活用について考え始め、最初はゴルフ場とか野球場でいいのではないか、という雰囲気だったが、復興交付金の勉強をしたら、そんなに甘いものじゃないということがわかった。自分たちでできるものでないと意味がない。プラン自体はどこにでもあるようなプランになったが、多目的グラウンドは、だれが管理をするかという点まで考えてあるプランになっている。土地は市有地なので、ただでなんとかなりそうということのあたりもあった。低地部利用は本当に進んでいないが、地域が主体になると可能性があることがわかった。
現状ではまだ土置き場になって、活動ができない状況。そのため、別のところで、東屋をつくったりとか、滝に行ける遊歩道をつくったり、浸水低地で将来は共同農園をつくって蕎麦作りをするなどして、将来の運営主体としてやれることを市にもアピールしている。
・専門家の役割は、復興を実現のための下支えだと思う。アドバイザーとしては2,3回来れば、なんとかなると思っていたが、それでは全然だめ。ずっと継続していくこと、それがまちづくりなんだ、と思った。

「福島における住まいと暮らしの復興に向けて:双葉町、楢葉町での検討を通じて」 中川智之氏(株)アルテップ

①双葉町の事例
・双葉町は長期にわたってもどれない。いわき市に南部の勿来のまちで、町外拠点をつくろうという構想になっている。
・町外拠点
外にまちの人たちがあつまって住む拠点。町民7,000人避難、いわきに6割、県外へは埼玉の加須などに避難している。そういう状況の中で、双葉町が一昨年、避難先のコミュニティについて意向把握のWSをした。その結果、高齢者の方がこれからどうするかという時に、生活拠点が欲しい、高齢者が集う場所が欲しい、とか、見守りサービスやカフェや土、足がない、などの意見が出た。合わせて、復興庁や県や被災市町が毎年アンケートによって、復興公営住宅への意向をたずねている。
・復興公営住宅への入居希望はいわき市が圧倒的に多い、わからないという人も多い。
いわき市は職場が近い、あるいは今の避難先と近い、という点が理由となっている。また入居希望は高齢者が多い。
・双葉町の町外拠点の考え方は、将来いつになったら帰れるかわからないときに、ふるさとをどう考えるのかということ。双葉に住んできたというふるさと意識は強い、ということもあって、分散型のネットワークをつくろう、という考え方に至った。
・いわき市の南部に特別養護老人ホームなどの拠点をつくる動きが始まっている。そこの復興公営住宅なので、福祉や子育てなどの生活支援を組み込んだパッケージ型の復興をしていこうとなっている。
・いわき市内の入居希望を聞いたところ、住宅についても単一ではなくて、世帯向け戸建てやニコイチなどの居住の選択肢をたくさん提示している。
・いわき市民と双葉町民との軋轢も生じることに配慮し、集会所は、地区集会所という位置付けにして、いわき市民も使えるように配慮しようという計画とした。
・社会福祉協議会が活動していたが、災害公営住宅にも本部機能をいれて、ディサービスなどを実現しようという計画。
・北側にイベント広場を設けて、囲むように集合住宅にして、足元まわりに生活支援機能を設けた。
②楢葉町の事例
・今年9月に避難解除されたが、戻ったのは1割未満。住宅は補修すれば戻れるが、お医者さんがいないとかお店がないという理由で戻りたくても戻れない。
・楢葉町は、帰還促進をするためにコンパクトタウン構想を掲げている。あるエリアに集中的に自力再建するための機能集約をする。国道6号沿いに楢葉町役場があり、そこを拠点化する。コンパクトタウンの概要は、竜田駅のあたり。行政コミュニティゾーンには、役場がすでに戻って再開している。まずは国道6号沿いでまとまって商業、病院、既存のこども園、災害公営住宅、などを集約する計画。
・住宅だけでなく、こども園なども含め、暮らしていくための機能をラインアップする計画。帰町希望者は、圧倒的に高齢者なので暮らしを支える機能の充実が必要。戸建てを中心とする災害公営の要所に集会所を置いて、高齢者の見回りを地域全体で可能にすることを想定している。
・時間軸、タイムスケジュールを考えながら復興を考えている。本設があとからくるまでの時間をつなぐイメージ。どういう主体がどう関わってもらえるかも検討中。
③東日本大震災の復興プロセスにおける、都市計画・住宅コンサルタントとして
・住まいと暮らしの復興
一般的な公営住宅とは違う。住まいだけではない、暮らしのためのフルセットが重要。
・縦割り行政の関係主体間の調整は、単断面ではない、時間軸での検討が必要。
・地域の主体が主体的にどう関われるか、段階的な運営計画を立てよう、と考えることが重要。

質疑応答

大月:神谷さんの話でなるほどと思ったのが、生業が犠牲になり基盤が先に進んでいる状況。広島土砂災害の勉強をした時にも同じことがおこっている。
まずインフラを整えた後に民地に進むというプロセスを経ている。伊豆大島の土砂災害も同じで、メモリアル公園、インフラを整備しているが、民地はまだ手がつけられていない。関東大震災も同じで、全て区画整理で復興が行われた。そういった状況にどう立ち向かうかというテーマだったと思う。
今泉の取り組み「先祖になる」はとても面白い。計画がないところを狙って自力で復興をしている。
内山さんの吉里吉里の取り組みも、箱をつくる議論の先に自分たちでソフトを訓練するというプロセスが面白い。
災害インフラを整備した後に個々人の取り組みという流れだが、計画していない場所で運動をするなど、一直線でないしなやかな人々の町づくりの取り組みが面白かった。
戦後はマスタープラン→土地利用→箱作りというプロセスが当たり前だが、住民自身が取り組んでいくことの重要性が分かった。後進国のスラムのインプルーブメントと共通する部分があると感じた。ようやく日本のまちづくりがアジアのまちづくりに追いついたといった感覚を受けた。
中川さんの福島のテーマは、町外、つまり完全アウェイな状況の中でやるという厳しさ。自分の土地でない。そうした中、町外拠点でも町内拠点でも、ただ待っているのではなく、町づくりを仕掛ける立場として、生業の復興、福祉、医療などの政府とは異なる取り組みを始めていくことができるのではないかと感じた。
尾形:専門家の役割は、コミュニティの行政のハブとしての役割があるということであったが、吉里吉里集落は、他の集落とコミュニティの形が違うと思うが、コミュニティとどう対峙すべきか。
神谷:2012年頃、市役所から嫌われていた。何をしていたわけではないが、あとで考えると地域内のコミュニティ問題だった。旧来は、行政と住民の関係は行政=おかみという関係。自分たちの関係を反映させたいという世代は30-40代だった。そこに協力したのが始まりだったが、勝手に走って邪魔していると思われた。
それが徐々に形になると見方が変わってきて、徐々に理解してもらってきた。それでコミュニティの質が変わってきた。最後の壁は議会だった。それにしびれを切らした市民たちが当選し、1/3の議員が変わった。コミュニティもこうやって変質していくということが分かった。
神戸もそうだったと聞いたが、選挙権が在日朝鮮人に与えられたが、自治会に入っていない人たちが大きな勢力だったため、協議会という新たなコミュニティをつくらざるを得なかった。
一緒に紋々に考えて、一緒に酒を飲むというのが自分のスタンス。
内山:コミュニティとの付き合い方。ゆっくりと話を聞くという形で入る。そういう入り方をしたため専門家とは思われていない。吉里吉里と赤浜、安渡は、それぞれ別々で、今回の復興のためには、世代間で担い手をつくらなければならない。吉里吉里が先に進んだのは、年寄が若者に譲ったから。赤浜は年寄が強い。安渡は3つの集落をまとめたため、まだ落ち着いていない状況にある。ゆっくりと付き合っていくことが必要と感じている。
尾崎:住民たちの計画はたまに暴走することがある。古老たちが動き出したときに、どうやって専門家は付き合うべきか。大きな計画とは異なるところで住民たちが動いた場合、どう専門家は考えるか。
神谷:専門家のくせに本気で怒ると言われる。暴走したら怒る。それで信頼関係ができる。今泉では事業自体が全く進んでいない。区画整理も実現するか分からない。いつになったら戻れるのか全く分からない。最終的には3-4割の住民しか戻ってこない。そういった中で、彼らがやっているのは暴走なのか。ああやってスラムができるのかと思った。
内山:客観的な情報を持って理解してもらう。その上で議論してもらうようにしている。
越喜来地区では最初は行政が全部出してもらうと思っていたが、そこで復興の仕組みをきちんと理解してもらうことをしてもらった。基盤整備がされるまでには時間がかかるというところこそ、訓練を始めることができた地域。行政側からスケジュールをきちんと提示されたところがそういった活動をできたと思う。
尾崎:今泉や吉里吉里のように行政に頼らないで足を踏み出す考えができるのは、そこに根付いた土地がある、帰属意識があるということが重要と感じる。その場合、コミュニティの根っこをつくるためのプランニングの観点ではどう考えているか。
中川:コミュニティの担い手がまだ特定できていないのが難しいところ。徐々に作っていくことが大事。住民だけではできず、NPOとか社会福祉協議会などの人々を担い手として呼び込みながら、コミュニティづくりのきっかけをつくり、段階的に帰ってくる中で徐々に住民に移していくことを試行錯誤していくことになる。動態的なマネジメント計画が重要と感じる。
質問:福島の事例の中で、原発事故が世界的な災害だが、そこでどうやって復興するかは世界が注目していると思う。これが帰ってくる未来なのか。そこは検討したのか。
中川:双葉については、災害拠点を様々な場所に作っていく。戻っていく場所ではない。それとは別に、長期ビジョンを描いており、戻ってくるための絵は描いている。少なくとも、絵としてはあるが、時間軸は示されていない。世界的に見てどうか、という点から見ると、疑問はある。戻ってくるのかどうか、というと、絵のリアリティの問題も含めてあると思うが。
鈴木:神谷氏の話で、地主からの土地の回収率が70%を上回ったということで、それを行政に提案したのは非常にまとまった意見になっていると感じた。逆に住民の一部が声を上げている場合もあると思う。サイレントマジョリティの問題についてどう考えているか。
神谷:広田では最初から気遣ってやっていた。朝おばあちゃんたちがラジオ体操して、顔見知りして、普段から話を聞けていた。それとリーダーたちの意見の相違がないかは初期はよくやっていた。逃げ地図WSでも女性だけのWSを開催するのもそういった点への配慮。
今泉では、住民の複数に割れてしまっている。外に出て行った人たちでも協議会をつくって、中にいる人でも協議会もつくっている。どちらの意見を聞くべきか、瞑想しているのが実態。
形が見えないといけない。集会所をつくって話し合おうというのが自分がやったこと。それを経て戻ってくる人が出てきた。さらに住宅をつくることで20世帯程度戻ってきそう。形を見せて、またセーフティネットをつくりながら、住民自身がやっている場合もある。
バラバラになったコミュニティをひとつにまとめる。
内山:吉里吉里はやる気のある人が引っ張っていく事業だが、一部の人のものになってしまわないように、全戸にチラシ配布をするなどしている。吉里吉里大運動会をやったら、300人以上が集まった。活動をみなに知ってもらう努力をしている。
中川:世代別WSをやるということをやっている。サイレントマジョリティにならないような努力はしている。コミュニティの担い手が見えていない中、難しい部分もある。
米野:国の調査の手伝いをしており、行政側の目線で見ている。マスタープランを作ってから民地へと進む一般的なプロセスについて、住民がまとまっていて、そこに専門家が入ってうまくいった事例だったと感じた。うまくいっていない事例もあったと思う。行政は全体として復興させなきゃいけないという使命がある点で取り組みが違うと感じた。
岡崎:建設コンサルタントには行政としてかなり助かったという実感はある。住民側からの要望を実現するための技術やプロセスをつなぐ役割を果たすことができるのが、コンサルタントの役割としてあると感じていた。勝手にやってくれたものを行政が後押しするのが行政としては最も楽。行政主導型だと時間もかかるし、お金もかかる。
毎日が流動的で、トータルに状況を把握している人は行政にいなかった。ある切り口の中で全体を把握している人がいるということは、行政としてもよかった。
本田:復興は効率的にできるものではないが、新陳代謝の中で捨てられるものがあることを前提に動かないといけない。行政は無駄になるからやらないといったことは言えない。
どういう場合に怒るのか。といったことをきちんと伝えていく。方法論を構築することも重要だと思う。そのあたりを紹介してもらえると、現場に行ったことがない者が学べる知恵が出てくると思った。消えてしまうことを前提に何をしなければならないかということを考えていければと思う。
神谷:国費で復興しているというのは税金でやっていること。何を期待してお金を出しているのかを考えてほしい。生業を復興させろといったのは、被災者のためだけというよりも国全体のためだという意識を持ってほしかったため。被災者はショックだったと思う。火事場泥棒のようなことはやってはいけないと被災者には伝えた。役場も大変なんだから、わがままばかり言うな、ということも含めて。 なぎあわせていかなくてはならない。その方法を手さぐりしている。

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