福島-復興デザイン研究体の取組み
第四回復興デザイン研究会では、「福島-復興デザイン研究体の取組み」と題し、復興デザインスタジオ(建築)における福島におけるスタジオ提案および復興デザイン研究体のメンバーが現地で取り組んでいる実践について報告を行いました。
福島:復興の諸相 建築雑誌3月号特集より
井本 佐保里(復興デザイン研究体 助教)
避難指示の出された12市町村を対象にしている。一言で福島と語られがちだが、12市町村にはそれぞれ違いがある。福島県内への避難者は71,755人、県外へは47,219人。合計で約11,9000人が避難生活を続けている。一般の仮設住宅よりも借り上げに入居している人の方が2倍程度いて、他の災害と違うことが見れ取れる。応急仮説住宅と復興公営住宅は福島県内にちらばっている。いわき市に建てられた復興公営住宅の数が多い。
各市町村ごとのデータシートから、日本全国への各避難先を色別に表した。直後は全国に避難しているが、だんだん時間が経つにしたがって、集約されているいうことが分かる。いわき市が福島県内で最も多くの避難者を受け入れている。12個の市町村を避難指示区域割合の高い順に並べた。双葉町から葛尾村までは全域が避難指示区域となっている。その中でも帰還困難区域の多い順に並べている。つまり、深刻度が高い順に並べているという想定。双葉町から楢葉町は誰も住む事ができない市町村。楢葉町は、町の判断で全員避難することになっている。南相馬から広野までは町内に住んでいる人もいる。下に役所機能/学校機能/応急仮説住宅/復興公営住宅の立地が町内か町外かを記した。楢葉町までは町外コミュニティが重要となる。楢葉については居住が将来可能となるので、これから建設する公営住宅は町内に建設することになっている。南相馬市以降は公営住宅はほとんど町内に作っている。また、帰還の見通しの公表を各市町村が行っているが、居住不可になっているエリアでは、帰還の公表をできない市町村もある。居住不可の双葉から楢葉では町外コミュニティが重要になってくるのだが、どこに町外コミュニティを置くのかということになると、7市町村中5つがいわき市に置くことになっている。
一番困難区域の多い双葉町を見てみると、いわき市の南台に259戸の仮設住宅が整備されている。お祭りなども継承されていて、双葉町の人が全国から集まってくることになる。さらに190戸建設予定で、福島県内でも最大のコミュニティとなる。町の一部が避難指示解除準備区域になっているので、復興の拠点にしようとしている。ただ、元々の中心は駅のあたりで、ここは帰還困難区域。これは双葉町特有のやり方というよりは、同じ状況にある浪江町でも同じように復興が進められる予定。浪江町については、いわき市を中心に町外拠点を整備していくが、浪江の東側が避難指示解除準備区域で、比較的復興の足がかりにしやすい。たまたま、町の拠点がもともとこちらにあったので、ここを拠点としながら西側に復興を進めていくことになっている。
一方で、大熊町も同じくらいの割合だが、人口の96%が住んでいるエリアが帰還困難区域になってしまったので、実際としては浪江と条件が異なっている。5年間は帰還しないという宣言を出していて、町内整備をしていくことが大変。避難指示区域の割合が多い少ないだけではなく、どの部分が帰還困難区域になっているかが復興に際して重要なファクターとなってくる。
南相馬市では、すでに人口の75%が市内に居住している。2016年度末に市街避難者等を0人とするという目標。
川内村は避難指示区域は6割とかなり少ないが、村内人口は約2割にとどまる。線量的には戻れるが、浜通りの他の市町村が復興しないと職場などがないので、なかなか帰還が進まないという状況になっている。仮設住宅と避難先を行き来しながら生活している人は1500人くらいだと言われていて、全人口の約半数が2拠点居住していると言える。広野町は、2拠点居住の人が多いと町が発表している。また、約2600人の作業員が広野に滞在していると言われている。外部の人が多く入っていることから、治安などの面で居住面への不安も生じている。
まとめになるが、今回、12市町村6市町村をピックアップして調査を行った。復興の手法としては、町外拠点と町内復興の抱合せ。どこを町内の拠点にするかを考える際、元のまちと困難区域の場所との関係によって足がかりにできるかできないかが変わるという点で、復興の進度に関係する。住まい方は世帯分離や2拠点居住。復興の圏域については、今回、12市町村それぞれの役割が見えてきた・例えば広野は、先導して帰還が始まった市町村ということで、他の市町村が持っていない復興の最前線としての役割を果たそうとしている。また、川内村のように職場がまちの外にあった地域では、そこが除染を終わっても帰還が難しいため、周辺市町村と連携を図ることが重要である。簡単になったが、建築雑誌の「復興の諸相」について概要をお話した。
復興デザインスタジオ成果:NTを対象として
川上 咲久也(建築学専攻修士1年)
いわき市の中でも、仮設住宅が密集しているニュータウンに注目して提案を行った。平地区と小名浜地区というところを結ぶ都市軸と、山側と海側の観光地を結ぶレクリエーション軸の交叉するところにニュータウンがある。商業施設の計画が少ないのが特徴。
3.11後にはいわき市内に36箇所仮設住宅ができ、その内の12箇所がニュータウンに集中した。この内の一箇所にいわき市の津波被害者が入居し、残りは楢葉町や広野町や原発避難者が入居している。 実際にいわき市のニュータウンに視察に行った際、ニュータウンの人と仮設住宅の人の間に大きな境界があると感じた。空間的にも大きな違いがあり、交流がうまれていないのではないかと感じた。また、社会的問題や差別があることも分かった。さらに、仮設住宅の今後についても問題がある。本来は5年で仮設を解消するルールだが、仮設住宅をニュータウンから追い出して、ニュータウンに戻す計画は適切ではないのではないかと感じた。さらに、ニュータウン内には県営と市営の公営住宅は一つも計画されていない。仮設住宅に住んでいる人たちが次の住宅に移る時に、仮設住宅で培われたコミュニティを壊すことになる。
そこで、仮設の人を追い出すのではなく、ともに暮らしていけるものを提案した。
1つ目の提案は、避難者にとって新しいふるさとをつくるということ。5年間住み続けたことで新しい仕事や知り合いができて、新しい生活が整ってきている中で、ここを新しいふるさととして、避難者とともにニュータウンをつくっていくのがよいのではないか。そのために、木造仮設住宅をリノベーションして、長く使える住宅へと変えていくことを考えた。また、プレハブ住宅をつかっている人々は新しい住宅へ移動していくが、その空いた土地をニュータウンに戻していくということを考えた。例えば、空いた場所にイベント広場をつくったり、集合住宅や戸建住宅も作れる土地を確保する。プレハブの人たちが移り住んで、新しいふるさとをつくっていけるのではないか。最終的にこうなったらいいな、という提案を模型にしている。色別に示しているが、集合住宅や戸建て、老人ホームや商店街などの店舗が入り交じるものを提案している。
それに加え、ニュータウンの住民との交流についてもうひとつ提案がある。避難者といわき市民を無理やりまぜたからといって交流が生まれるわけではない。交通手段を用いてゆるやかにつながることができないかと考えた。現在ニュータウンはいわき駅や小名浜に行く長い路線バスはあるが、ニュータウン内をめぐるバスはない。ニュータウンだけをめぐるだけのバスをつくり、公共施設のところにバス停を置いて交流できる場所を設ける。木造住宅のリノベーションでバス停をつくることができないかと考えている。
復興デザインスタジオ成果:駅前を対象として
紺野 光(建築学専攻修士2年)
わたしたちの班は常磐線のいわきの駅について考えた。東京から近いという交通の位置づけで、1日平均乗車数は6000人ほど。昔からいわきの中心地として栄えてきた。これから、以下の3つの状況が起こると考えられる。
1つ目は、他の地方都市同様、人口減少が起こる。もう少しいわき市の中心部に人が集中して住むのではないかと考えられる。
2つ目は、避難者の受け入れ地としての住宅不足。
3つ目は、原発に近いということ。原発に関わるひとびと、学生や研究者がいわきを拠点にして復興に関わっていくのではないかと考えた。
こうした状況の中で求められているものは何か。原発、復興に関係する人が集まれる場所、いわき市に中期的、長期的に住むことのできる場所があるといいと考えた。いわき駅周辺に広がる駐車場に着目し、駐車場をひとつの立体駐車場に集約することで、新しいプログラムを挿入できるのではないかという提案。例として、集会所、緑地、住宅を挿入できる。さらに、どのくらい実現性があるかを計算した。月極やコインパーキングにしている駐車場を転換したとして、いろいろ計算すると、実現性がありそうだった。また、一度に集積するのではなく、いわき駅周辺の500m圏内くらいでは、立体駐車場を7箇所に拠点として設けて、新たにプログラムを設けた。例えば4番だと、双葉町のひとだけが得するものをつくるのではなく、拠点ごとにテーマを考えて、双葉町がここに拠点を作ってくれることで私達も得をする、というようなお互いにメリットになるものを考えた。
集中して建築の提案を考えたのが1番(国×交通)のところ。現在はパークアンドライドで、常磐線を利用するなどしている、JRの土地。駅近の土地なので、被災した人や原発関係者、復興関係者など様々な人が集まる。次の3つのゾーンを想定した。
1) STAYING ZONE:単身者用36戸。ファミリータイプ/シェアハウス8戸。→原発や復興関係者が使う。
2) PARKING ZONE:線路脇に立体駐車場を設け、656台のキャパシティを確保。
3) INFORMATION ZONE:いわきに住みたいという人が情報を一度に手に入れられる場所。色々な情報を一箇所に集めることは難しいが、その必要性があると感じた。
INFORMATION CENTERについては、いわき駅から住宅街の方に動線があるのだが、そこに長い廊下を設けて、人の流れに沿って、情報を古い順から新しい順に置いていくという提案。観光客等、一般的な情報をいわき駅側に、長期的に滞在したい人のための情報を住宅地側に配置した。ボックスをいくつか設けたような提案になっている。
双葉町の復興議論の現状
大月 敏雄(建築学専攻 教授)
双葉町では、平成24年の5月に、はじめて「復興への道」という計画が出された。その後7月に、国が福島復興再生基本方針を出す。それを受けて、具体的な対策が決まる。ここでようやく、国の動きがわかってきた。 平成25年の4月に双葉町復興推進委員会を結成し、私はこのとき復興推進委員に任命された6月に早速、復興まちづくり計画第一次案がつくられた。結局このまちづくり計画案は町外復興拠点についてのみで、町内については何も書いてない。
去年の4月に双葉町立小中学校が開校したが、1桁の児童しか集まらなかった。復興を考えるときに教育の面はとても大事だと思っている。去年の8月に大熊・双葉ふるさと復興構想をだした。去年の夏頃に中間貯蔵施設がここになりかけたときに、その対策として国が方針を出した。去年までは年次の話がまったく出てこなかったが、ようやく、時間のプランニングができるようになった。
そして、ようやく今月末に工程らしきものを明示する「復興計画」を発表した。 町外復興拠点については、2013年度までは期待で盛り上がっていたが、徐々にに重きが置かれなくなった。初期のアンケートでは、3割くらいが公営に入りたいと言っていた人が、毎年数が減っていて、今は1割くらいになっている。 逆にこの半年で盛り上がりを見せているのが町内復興拠点。町内拠点を整備するのは東側と言われているが、そこは津波でやられており、山を削って盛土して、といプロセスとなる。
今後の課題について。まず、今年10月に国勢調査を行うがどのような手法で行うのかということ。次に、中間貯蔵施設について。また、今議論されていないのは、町内拠点に本当に住めるのかというところ。 岩手でも3年経ったあたりで議論していると思うのだが、皆すぐに図面をしょって提案しにいくが、遅れて提案しにいくのもありではないかと感じる。実はこれから「提案」が求められているかもしれない。提案をするタイミングも「復興デザイン」なのかもしれない。被災して1年半経って、今提案が求められている。土木工事で山の安全は保つことが見え始めていて、土地利用などを今考えようとしている。災害がおきてすぐに提案持っていくだけではなく、2年目3年目に持っていくことも必要かもしれない。あまりそういう話はでてこないが、それに対する支援もあわせて考える必要がある。
南相馬市小高区地域構想の手がかりをたどる
益邑 明伸、李 美沙(都市工学専攻修士1年)
窪田先生と一緒に、南相馬市の小高区というところで去年の夏から復興のお手伝いをしている。 鹿島町と原町と小高町が合併して南相馬市ができた。小高区がちょうど原発から20kmのラインにかかっているくらい。多くが準備区域で宿泊はできる。平成28年の4月に避難指示が解除になる予定でそれに向けて整備が進んでいる。仮設住宅の話だと、小高区にはなくて鹿島にあるが、公営は小高にできる。一番まちなかのところに常磐線の駅がある。ほとんど山地になっていて、平地はほとんどない。右下の所は津波をかぶって海になっているが、もともと村だった。
簡単に小高と南相馬の話をする。一番有名なのは相馬野馬追。神事ということにされているが、実質馬術の訓練。小高神社は中村藩の小高城があったところで、昔は非常に栄えていた。原町が栄えていくのは常磐線が通ってからで、それまでは小高が中心部であった。 1909年の地図を見ると、常磐線開通したばかりの状況が分かる。小高川が今の位置ではなくまちなかを通っており、氾濫していた。1953年の地図では、小高川が氾濫するのを防ぐために付け替え工事をして、今の位置に移動している。1973年の地図は、原発を誘致した後。原発が来ることによって、これといった産業が無かった小高では、裕福になった。まちなかも拡大している。1994年の地図は合併後のもの。 小高は山やまちなかでは原発被災が目立っているが、海側では津波被害で集落全体で被害にあってしまった所もある。相馬野馬追は震災の年も休まずに行われている。
小高の中には36くらいの行政区がある。いくつかの行政区の方にインタビューをした結果、分かっている課題をお話したい。
1) 産業の問題
産業という点からみると、一次産業は山間部や水田は特に汚染が高く再開が難しい。その中でも農業を再開している人がいる。まちなかで再開しているところをプロットした。小高のひるごはんというお店では、とれたての野菜を提供している。二次産業は70年代に電気・電子産業が進出しているが、震災前から衰退の状況にあった。三次産業を見てみると、インタビューでは、震災前は比較的密度の濃いまちなかで給食や学生服などの需要があったから、うまくバランスが取れていたが、震災後は原町で再建しているひとがいたりと、震災前に比べて激減しているとのこと。ご子息が震災をきに東京に就職してしまって働き手がいないという問題もある。
2) 人がいない問題
補償金があること、放射能汚染への懸念から、働く人がいなくなっている。特に若いお母さん世代がパートタイムで働くことがなくなってしまった。旧村の範囲で自治が行われていたが、青年会や神楽の活動は高齢化が進んで衰退傾向にある。
3) 地域の分断/家族の分断
津波被災者と原発被災者とで補償金に差があることが地域の分断を生んでいる。また、家族の問題は、震災前は一緒に暮らしていたけど、仮設が小さいので別れて暮らさないといけなくなったり、東京へ出てしまったり、ということ。
4) 放射能の問題
「山があっても山がない、海があっても海がない」とよくおっしゃられている。放射能の心配としては、35年くらい除染のしごとをされていた方が管理されていた数値が、国の数値と10倍100倍もちがうという話がある(管理基準がゆるまっていることへの疑念)。除染施設があるが、住民の方が持ってきて測ってもらえるのは1kgから。自治体による違いもある。
ここからは現在の活動内容について。地域構想WGの中に東京から行っている人間として参加している。南相馬のなかで小高だけおくれているように感じておられて、小高全体のことが分からないまま進むのはまずいということで、全体の構想を考えることを依頼されている。小高区地域協議会の下に地域構想WGが設置されている。 時間軸WSというのをやっていて、自分たちの小さいころと小高全体の歴史を振り返ってもらって、地域がどうあれば自分たちがどうあるというのを意識してもらおうとしている。 WGの中では地域構想を作るということになっているが、「小高ってこういうものだよね」という概念を共有したうえで計画しないといけない。そこで7つくらいのものが挙がっている。
1) 多様な在からなる
人が減っていくなかでそれぞれの在を成り立たせていく必要がある。昔は行政区のことを在とこの地区では呼んでいた。町に対しての「在」だった。
2) これまでの蓄積を活かす
公費解体の期限が迫る中で、何を残すかということ。
4) 新たな生業に挑戦する
小高は新たな生業へ挑戦してきた町。また新しいことに挑戦しないといけないと思っているが、どうすれば芽生えるのか。
5) 活動が芽生える
6) 人と小高の、いろいろな繋がりをもつ
人と人の軋轢をうまないようなまちとしての考え方が必要なのではないか。
7) 災害リスク、放射線リスクに向き合う
計測機を持たないほうがいいと言っている人もいる。そうでない人たちとの間に溝を作らないためには、共有することが大事。このような7つの柱を共有しながらWGを進めている。不確定要素が大きい中で将来像を考えなくてはいけないことになっている。その中で動き始めているもの、これまでの蓄積、関心のある人をつなぎあわせていかなくてはならない。その方法を手さぐりしている。